32話 皇帝陛下
この質問に、皇帝は全員を見て大きく頷く。
「まことである。
どうやら侍医は藪医者のようだとわかったからな、他の医師に友仁を診させるべきだと明賢から進言を受けて、医局に命じた」
皇帝の言葉に、胡昭儀がホッとした顔をする。
皇太后によって「呪い憑き」の烙印を押されてしまった我が子に、救いの手がようやく差し伸べられようとしているのだ。
安堵するのも当然だろう。
「そんな……」
一方、文君は驚きの表情で呻き声を漏らす。
「皇太后陛下はなんと仰っているのですか!?
『呪い憑き』は道士に任せるべきかと思われます!」
必死になって言い募る文君に、しかし皇帝は冷たい視線を向ける。
「ここの主は皇太后ではない、朕である。
ゆえに皇太后の意見など必要ない」
その二人の様子に、雨妹は内心でため息を吐く。
――頭に血が上って失敗したね、あの人。
皇太后の姪の子を太子にしなかったことを鑑みても、皇帝と皇太后の仲が良くないのは想像がつく。
それなのにこの場で皇太后の名を出すのは下策であろう。
相手の背後に皇太后がいるのなら、こちらもそれ相応の後ろ盾が必要となる。
それで太子が用意したのが皇帝というわけだ。
――ちゃんと来るのかヒヤヒヤしたけどね!
だがこうして太子の意見を聞いてやって来たということは、皇帝も友仁皇子のことをそれなりに気をかけていたのだろう。
皇帝は友仁皇子の手当てをしていた子良に視線を向ける。
「してそこの医官、友仁の様子はいかがであるか?」
皇帝はそう質問をすると、背中の傷を隠すために子良の上着をかけられた友仁皇子を見た。
「……!」
すると友仁皇子が怯えたように縮こまる。
皇帝主催の宴の席での問題が発端だと聞いているので、皇帝の存在自体を恐ろしく思うのも無理はない。
子良はその怯えを感じ取ったのだろう、友仁皇子の両肩を包むように優しく掴む。
するとひと肌の温もりが安心させたのか、友仁皇子の身体から力が抜ける。
その様子を見て、子良が皇帝に告げた。
「診察は今から行うところです。
しかしその前に必要なものがありまして。
胡昭儀、準備はできていますかな?」
「ええ、ここに」
子良が尋ねると、胡昭儀は控えさせていた宮女に籠を持って来させた。
「これが頼まれたものです」
「わかりました、ありがとうございます」
籠を差し出す宮女から助手の立場である雨妹が受け取ると、皇帝が関心を示す。
「なんだそれは?」
「どうぞ、確認してください」
雨妹はその中身を見せた。
「……卵と、牛乳か?」
「はい、こちらのお屋敷の台所から拝借したものです。
診察にあたって必要なので、用意してもらいました」
ハキハキと説明する雨妹を、皇帝が不思議そうに見つめた。
「……そなた、いつかの掃除係ではなかったか?」
王美人の所で見かけた姿を覚えていたのだろう。
確かに頭巾に布マスクをした宮女というのは後宮内でも滅多にいないので、皇帝の印象に残っていても無理はない。
首を捻る皇帝に、雨妹は告げる。
「掃除もしますし、先生の助手もします」
嘘ではない、掃除は仕事で助手はボランティアなだけだ。
そんな会話をしていると、胡昭儀に声をかけられる。
「この場で診察というのも落ち着かないでしょうから、部屋を用意させました。
皆様そちらへ参りましょう」
というわけで、ここから移動して改めて診察を行うこととなった。
全員が座れる広い部屋で、雨妹と子良は早速準備をする。
まず取り出した卵と器に入った牛乳を別の器に少量採り、水で薄める。
これらの行動の意味がわからない皇帝は、目を瞬かせて見入っていた。
「それは、なにをしているのだ?」
尋ねてくる皇帝に、子良が向き直って答える。
「友仁皇子殿下の体質を調べるための準備です。
詳しいことは、こちらの助手の口から語らせたく思います」
その言葉と同時に、雨妹は一歩前に進み出て一礼した。
「それで体質を調べるとは、どういうことだ?」
皇帝の質問に、雨妹は応じる。
「友仁皇子殿下が、食物過敏症であるかどうかを調べるのです」
そして太子に行ったのと同じ説明をする。
毒でもなんでもない食べ物を異物として認識してしまい、食べると炎症反応などの症状が出ること。
人によっては死に至ること。
あらゆる食物で症状が出る可能性があるが、最も出やすいのが卵・牛乳・小麦であることなどを、順を追って話す。
これを聞いた皇帝が、「ふむ」と顎を撫でる。
「それは食材が腐っている、ということではないのか?」
「違います。
例えば小麦過敏症の患者であれば、新鮮であっても小麦そのものが毒なのです」
このやり取りを静かに聞いてる一同の中で、椅子を蹴立てて立ち上がった者がいた。
「いい加減なことを言わないで!」
そう叫んだのは、皇帝の手前、ここまで静かだった文君である。
「そんな話、聞いたこともないわ!」
我慢ならなくなったのか会話に割って入る文君を、皇帝はちらりとそちらに視線を寄越しただけで、特別なにも言わず。
そして雨妹は静かな口調で反論する。
「聞いたことがないのは、そちらが不勉強なだけでしょう。
少なくとも台所番の宮女は知ってましたよ」
宮女に劣ると言外に言われた文君は、カッと顔を赤くする。
「お前、私を侮辱する気……!」
「黙れ、陛下の御前である」
雨妹に突進して掴みかからん勢いの文君を制したのは、立彬だ。
「陛下の御前で無礼な振る舞いは許されない、大人しく控えていろ」
立ち塞がる立彬に、文君が悔しそうに歯噛みする。
立彬はこの部屋に移動する間もずっと、己の立ち位置を微妙に調整して、文君との間に入れるように常に気を配っていた。
――あの気の配り方って、宦官っぽくないよね。
雨妹は立彬を横目で見て、そんなことを考える。誰かを守るために動くことを計算できるのは、どちらかといえば武人であるように思うのだが。