307話 見守る
宮城から戻った雨妹は、静がいるかと思って食堂に顔を出した。
すると、そこでは――
「でね、その娘はだんだんと身体が弱っていき……」
「ひいぃ、怖い、けどそれで、それで!?」
なんだか美娜が卓で向かい合って座る静相手に、真剣な表情で話をしているではないか。
それを離れた卓から眺めている楊が、雨妹に気付くと苦笑してみせた。
――ああアレかぁ、「百花宮の本当にあった怖い話」!
雨妹は美娜が話している内容が思い当たり、邪魔をしないようにそうっと足を忍ばせて食堂に入る。
この話は、実は雨妹も美娜から聞かされていて、いわゆる美娜の鉄板ネタという奴だ。
美娜のひそひそとした声がまた臨場感が出て、ここが食堂であることをだんだんと忘れさせられるのだ。
静は「怖いけれど、先を知らないともっと怖い」という状態で、耳を手で塞いだりやっぱり解いたりを繰り返しながら、その話に聞き入っている。
――思えば、静静って表情豊かになったよねぇ。
雨妹と出会ったばかりの時は、まあ険しい山を越えてみせたくらいに逞しかったけれども、同時に「他人に弱みを見せてならない」と気を張ってもいた。
けれど、どんなに気を張って周囲に侮られまいと背伸びをしてみせても、まだまだ人生経験の浅い子どもである事実は隠しようがない。
それでも大人の振りをしてみせなければならなかった静が、雨妹には哀れであった。
けれど今、静は歳相応の表情をしてみせている。
それと同時に、大人びても見えるのだ。
当初のような大人の振りをしたものとは違う、静の内面から現れる大人の部分である。
――子どもって、急に大きくなる気がするよねぇ。
子どもとは大人と時間の密度が違うようで、静は日々ちょっとずつ生まれ変わるように、のびやかに生活している。
けれど一方で、雨妹は静の成長の全てを見守れるわけではない。
誰も静の全てを最後まで助けてやることなんて出来ないのだ。
最後の最後に静を助けることができるのは、静自身しかいない。
だから今雨妹が教えていることは、知識や技術というよりも、「自分のことは自分でなんとかする」ということである。
しかしもちろん、自分でできることなんて限りがあるもの。
なので「自分でなんとか出来ない時は他人に頼る」ということも、「自分でなんとかする」手段の一つなのだ。
これまでの静に最も欠けていたのは、この「他人に頼る」という点であろう。
出来ないことは諦める、これが静の常識だったのだ。
――杜様は「生きる術を授けろ」って言っていたなぁ。
それはなにやらとても大変な修行のように聞こえてしまうけれど、雨妹が思うに、わかりやすく言えば「自分を大事にする」ということなのだろう。
ちゃんと食事をする、知識を学ぶ、誰かを頼りにする、これら全てを自分で適切に選び、実行していく意思を持つことが「生きる術」なのである。
だから今の雨妹がしてやれる精一杯で、静の生活力を鍛えてやったつもりだ。
静は食事をしっかり食べて強い身体を作ることの意味、勉学をすることの意味を知った。
後宮に来てからのほんの短期間で、静はなにかの技術が劇的に上手くなったわけではないけれど、どんなことでもやる気が出るようになった。
「言われたことをこなす」「我慢強い」という静の特性は、逆に言えば「自分を第一に考えない」ということでもあった。
けれど雨妹が繰り返し「健康第一!」と教え続けたことで、自分の体調を気にするようになっている。
これは大いなる変化であろう。
健康を自力で維持できてさえいれば、後はなんとでもなるものだ。
なので雨妹の杜からの頼まれ事は、ひとまずやり遂げたと思ってもいいのではないだろうか? そして静の影響で、苑州の民も健康に対する意識が高まればいい。
特に食欲は大事だ。
苑州はせっかく「異国への出入り口」という利点があるのだから、戦だなんだという物騒な事ではなく、美味しい異国の美食こそ招き入れるべきであろう。
――静静が美味しい物を食べる素晴らしさを、故郷へ広めるんだからね!
そしてぜひ、雨妹の元まで異国料理を届くようにしてくれれば、存分に異国料理を楽しんでやるものを。
そう雨妹が一人未来への野望に燃えていると。
「そうしたら、風に乗って女の悲鳴が!」
「ひゃーっ!」
静たちはどうやら美娜の語りが終わりに差し掛かってきたところで、雨妹の存在に気付いた。
「おや阿妹、お帰り」
それまで真顔で語っていた美娜が、朗らかな顔でヒラヒラと手を振ってくる。
「お帰り! 聞いて聞いて、今すっごい鳥肌になっているんだよ!」
「はいはい、どんな話を聞いていたの?」
興奮する静を微笑ましく思い、雨妹は隣に座りつつも、卓に置いてあった麻花をひょいとつまむのだった。




