29話 医局にて
太子宮で話をした翌日。
この日の仕事を終えた雨妹が訪れたのは、医局だった。
「こんにちはー」
「おう雨妹じゃねぇか」
雨妹が外から声をかけてから戸を開けると、中でなにかの草をすり潰していた医官の子良が、顔だけをこちらへ向けた。
「また湿布でも貰いに来たか?」
そしてそんなことを言ってくる。
実のところ雨妹は、他の宮女に頼まれて湿布を貰いにちょくちょく来ていたりする。
――なんか皆、医局って行きたがらないんだよね。
宮女は医者嫌いが多いらしい。
処方される薬が苦いせいもあるかもしれないが。
けれど今日の用事は湿布ではない。
「違います。
おやつを持って遊びに来たんですよ」
雨妹がそう言って、美娜に作ってもらった麻花を見せる。
「いいもん持って来たじゃねぇか、茶にするか」
子良は嬉しそうな顔で道具を置くと、いそいそとお茶を淹れる湯を沸かしに行く。
その間に雨妹は散らかっている卓の上を片付け、麻花を適当な皿に盛る。
こうして二人でおやつタイムとなった。
「うめぇな、この麻花」
「でしょう?
美娜さんの麻花は絶品です」
そんなことを言い合いながら麻花を幸せそうに食べていると、子良がふいに聞いてくる。
「そういやお前、大部屋追い出されたって本当か?」
医局にまで自分の噂が流れているとは、雨妹もとんだ有名人だ。
「はい、大部屋から個室へ移動しました」
ケロリとそう告げると、子良が首を捻った。
「個室? 物置じゃなかったか?」
「それがですね……」
雨妹はこれで何度目かの引っ越しの顛末を話す。
「お前はなんつーか、相手からすると苛め甲斐がないだろうなぁ」
「相手の望む反応をしてやる義理はありませんから」
それを聞いて呆れ顔をする子良に、雨妹は麻花を口に放り込みながら返す。
普通にしていれば個室を貰える機会などずっと先だったはずなので、これぞまさしく棚ぼたであろう。
この後も世間話をしながら、持って来た麻花を食べ終えたところで。
「で? なんか厄介事か?」
子良にそう尋ねられる。
「なんです? いきなり」
「だってよお前、用事もなく医局に来ないだろう」
一度はしらばっくれてみせるも、ズバリと言われた雨妹は、軽く愛想笑いを浮かべた。
なかなか鋭い男である。
「実は……」
こうして雨妹は、子良に友仁皇子について切り出す。
「はぁん、過敏症とはうまいこと言うな」
そして事のあらましを聞いた子良は、そんな感想を述べた。
――え、まず気にするのってそこなの?
病名に感心されるとは、もしやと思って雨妹は尋ねる。
「もしかしてこういった症状は、実態がそんなに知られていないんですか?」
この疑問に、子良は顎を撫でて「うーん」と唸る。
「小麦にかぶれるという事例はたまに聞くが、患者数となるとなぁ」
なんでも実状があまりよくわからないというより、病気の患者数の統計自体があやふやなものなのだそうだ。
今日の朝食時に美娜に話を聞いたところ、小麦のアレルギー症状について知っていた。
「身体が弱い人は小麦にかぶれる」というくらいの認識だったが、そういう人には小麦を食べさせてはいけないと聞いているらしい。
そんな風に一般的に知られていることなのに、わからないとはどういうことか?
疑問顔の雨妹に、子良が説明するには。
「病気ではなく呪いと考えて、道士の所へ行く患者が結構いるからな」
どうやら患者が医者にかからないからのようだ。
ここでも道士が邪魔をしているらしい。
「そんでな、道士に傾倒する奴は田舎より都の方が多い。
だから余計に実態がわからんのだ」
人口が多い都での調査がままならないため、症状の解明も遅れているということか。
しかし雨妹は、この話に少し意外な気がする。
「田舎の方が、その手のことって信じやすい気がするんですけど」
山の神を崇めていたりと信心深い田舎の人より、都の人のほうが道士を信じるとは奇妙に思う。
だが確かに考えてみれば、辺境の村で道士をあまり見なかった。
たまに見ても、旅の道士が異国から帰って来て都へ向かうのに通り過ぎるくらい。
長期滞在、ましてや住みつく道士なんて皆無である。
――なんでだろう?
この謎の答えを、子良が教えてくれた。
「あいつらは所詮商売をしているんだぞ?
物々交換が基本の田舎じゃあ、金にならんだろうが」
なるほど納得である。
一方の子良は、雨妹が告げた原因食材について考えていた。
「それにしても卵と牛乳なぁ。
お前がどっからその情報を手に入れたのかは置いておくとして。
症状を調べるにも、調査する相手が圧倒的に少なすぎる食い物だな」
子良の懸念に、雨妹も頷く。
「基本的にお金持ちの限られた人しか、食べませんものね」
田舎で鶏や牛を飼っているならともかく、それ以外の人には高嶺の花な食材だ。
ましてや金持ちは都に住まうもの。
都住まいは道士に傾倒しがちとなれば、医者の耳に入りにくいのも道理である。
そしてそのせいで今、友仁皇子は理不尽な「呪い憑き」なんていう悪評を押し付けられている。
まだ幼い子供が、アレルギーというだけでそんな目に遭うようなことがあっていいはずがない。
雨妹は真っ直ぐに子良を見た。
「友仁皇子が呪いなんかじゃなくて、食物過敏症という体質なんだと証明してあげたいんです。
先生、手を貸してください」
この言葉に子良がしばし沈黙した後、ガシガシと頭を掻く。
「……まあ、お前さんには借りがあるからな。
いいだろう」
ため息交じりの子良の言葉に、雨妹はパアっと表情を明るくする。
「そうこなくっちゃ!」
こうして、敵地に乗り込むための仲間が増えた。