276話 太子に報告……だけれども
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「ただいま戻りました」
雨妹の様子を見にいっていた立勇が太子宮に戻ると、明賢は秀玲に淹れてもらったお茶を飲んでいるところだった。
「お帰り。
こちらに座って、一緒にお茶を飲もう」
明賢が手招きしてそう誘ってくる。
「ありがたいお言葉ですが、今しがたお茶を飲んできたばかりですので」
けれど立勇はそう言うと申し訳ない顔をして、これを辞退した。
実のところ、雨妹の家からの移動の間に飲んだお茶なんてものは、とっくに身体の中で消化されている。
だが、今明賢と長話をしないための方便であった。
――命令を遂行したとは言い難いからな。
立勇としても、最初は雨妹に普通に話を振ってみて、相手が話さないならそれはそれでいい、くらいに考えていたのだ。
けれど顔を合わせたとたんの、あのいかにも「身構えています」というあの表情を見て、なにも聞けなくなってしまう。
なにも聞かずとも、雨妹がなにか大事に巻き込まれていることくらい、察せられる。
これ以上重荷を増やしてどうしようというのか?
明賢に誤魔化しを言いたくないが、雨妹からの情報をこれ以上求められたくない。
立勇がそうした気持ちの狭間で出した答えが、「とっととこの場から逃げる」であった。
これに明賢は「そうかい?」と首を傾げただけで、すぐに引き下がる。
「雨妹の家はどうだった?」
次いで早速尋ねて来た明賢に、立勇は内心で構えつつも口を開く。
「さすがに部屋の中までは確認しませんでしたが、台所は物が揃っていましたし、聞くところによると暖かい敷物など『十分な差し入れ』があったようでした」
「そうか、『十分な差し入れ』があったのなら、まあ安心かな」
明賢が立勇の言わんとすることを察したらしく、苦笑している。
「今回は急な人事のようですし、入用の物を揃える暇もなかったでしょうから、そうした点での配慮もあるのかもしれませんわね」
秀玲も思案気にそう意見を述べた。
立勇もなにか不足があれば後ほど差し入れるつもりでいたのだが、今のところ特に困っている様子はなさそうだ。
それにせっかくの新居なのだから、今から自分で色々と作ったり集めたりして、好みの空間に整えていく楽しみもある。
配慮を先んじるあまり、その楽しみを雨妹から奪ってしまうのもよくないだろう。
なにしろ物置を部屋に改造してしまった娘なのだから。
一方で、立勇の選んだ差し入れだが。
これまで雨妹への差し入れといえば、とりあえず食べ物を選べば外さないという認識だった。
だが雨妹の下についた新入りのやせ細った身体を見るに、どうやらあちらは食べるのがあまり得意ではないようだと考えて、今回は茶葉にしたのである。
そしてその選択は正解だったようで、立勇の戻り際に見送りに部屋から出て来た静という娘は、「饅頭ではなかった」とあからさまにホッとしていた。
――さて、粗食しか知らない苑州の者に、雨妹がどれだけ食欲を仕込めるものかな。
きっと雨妹は苦労することだろうと、立勇は内心で懸念する。
立勇は都育ちとはいえ、そのあたりの事情は故郷の者からよく聞かされているし、里帰りをした際に州境を抜けて来た者を見たこともあった。
死人と紙一重な身体つきを見て、絶句したものだ。
立勇がそんなことを考えていると。
「それで、例の新入り宮女の素性は、少しは知れたのかな?」
いよいよ明賢が核心の疑問を持ちだしてきた。
これに、立勇は不自然に思われないように思案するような間を置いてから、答えを述べる。
「雨妹の『あの娘をひとかどの人物に育て上げよう』という心意気は、見受けられました」
「ふぅん、なるほど?」
立勇の言葉に、頷いたものの心底納得した様子ではない。
――これ以上会話を続けるのはよくないか。
「では、所用にて台所の様子を少々見て参ります」
立勇は不自然を承知の上で、強引に会話を切って立ち去るのだった。




