207話 朱の話
お知らせ
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何故砦に敵国を招き入れるのか? と朱がわけがわからず混乱していると。
『そこのお方』
突然、誰かに声をかけられたという。
見張りの兵士に見つかったか? とビクリと肩を跳ねさせた朱が降り向いて見たのは、なんと子どもだったそうだ。
その子どもは十歳を過ぎたばかりかという年頃の男の子で、朱に片手を差し出してきた。
『探しているのはもしやこれですか?』
その子がそう言いながら手を開くと、手の中にあったのは確かに朱が落としたはずのお守りだった。
『そう、これを探していたんだ!』
『これを拾った時、落とした人はきっと探すんじゃないかと思ったんです。
返せてよかった』
朱が喜ぶと、子どもは微笑んだ。
しかし、お守りを拾ってくれたのはありがたいが、それにしてもここは国境の戦場だというのに、何故子どもがいるのだろう?
不思議に思った朱に、子どもは言った。
『おじさん、早く帰った方がいいですよ。
国境での戦いは……いや、なんでもないです。
けど兵士なら、ここではない別のところで働いた方がいい』
そのように子どもらしからぬことを言われ、朱は目を白黒させたものの、その時誰かが探しに来るような気配がしたので、すぐに子どもと別れてその場を離れたそうだ。
しかし朱は「早く帰れ」という子どもの言葉は、「兵舎に帰れ」という意味ではない気がした。
朱はここでの兵士暮らしに疑問を抱き始めていたところだったので、悩みながらとりあえず兵舎に帰っていると、その帰り道に敵兵士らしき者に襲われ、揉み合っていると崖から落ちてしまう。
落ちた先に川が流れており、今にして思えばその川に流されて砦のある地点からずいぶんと移動していたとのことだった。
朱は奇跡的に命を長らえていたものの、記憶を失くしてしまっていた。
朱が倒れているところへ偶然通りかかった男に助けられた朱は、彼が暮らす里までついていくと、そこで里長に滞在を認められ、しばらくその里で「無名」という名で呼ばれて暮らしていたらしい。
立勇は以前雨妹が「『無名』と呼ばないのは偉い」と明を評価していたが、きっとこの里長の名付けを聞いたら憤慨するだろうな、とひっそりと内心で苦笑する。
とにかく、朱は「無名」という名でその里ではとても平和に暮らしていたというが、転機が訪れたのは、その里に行商人がやって来た時だった。
行商人が朱の言葉の訛りから「彼は都人だろう」と指摘したのだ。
そこから、「自分にはもしや都に家族がいるのではないか?」という可能性が浮かび、何故か都を目指さなければいけないという焦燥感にかられたそうだ。
それで都を目指し、里から里へと商売をして回る商人の用心棒をやったり、荷運びを手伝ったりして旅賃を稼ぎながらやってきたという。
そして都にたどり着き、明に拾われるに至るというわけだ。
朱が里で暮らし始めたのは、どうやら数年前のことのようだ。
徐にもたらされた朱の死亡の知らせは、数年の時を経て届けられたものだったらしい。
しかし国の外れの地域からの手紙なんてものは、よほど信頼のおける早馬で運ばせたものでなければそんなものであろう、と立勇は考える。
「そして記憶を取り戻した今、改めて守り袋を見てみたところ、覚えのないものが入っていたそうで、それがこちらになります」
李将軍がそう言って懐から小袋を取り出し、その小袋から油紙で厳重に包んだものを出すと、これを右丞相に向けて差し出した。
官吏がその包みを受け取り、右丞相へと手渡す。
右丞相が包みを開けると、そこには小指の爪先よりも小さい程度の大きさの黒褐色の塊があった。
「うっ、ずいぶんな臭いだな!」
塊はかなり小さいながらも鼻を刺激する臭いに、右丞相が渋い顔になる。
「そうでしょうな、それが現在問題になっているケシ汁とやらです」
右丞相が苦情を言いつつも、手に持っているソレを投げ捨てるわけにはいかず困っている様子に、李将軍がひっそりと笑いつつ説明した。
「もちろん、徐子はそのようなものを守り袋に入れた覚えはないそうで。
おそらくは話に出た子どもとやらが、これを仕込んだのでしょうな」
李将軍がそう述べるのに、ようやく官吏に臭いのもとを押し付けることができた右丞相が、「ゴホン」と咳ばらいをする。