205話 幸せ
徐がその場で向き直り、跪こうとする。
「徐よ、それはいけない」
それを明が止める。
まだ青白い顔をしていながらも、判断力は正常に動いていたらしい。
この場には他に通行人がいるので、叩頭をされては困るのだ。
なにしろ宮城で叩頭を受けるべき人とは、国で最も尊い人物なのだから。
しかし、この場にいるのはいち宦官である。
止められた徐は、せっかく乾いたであろうに再び涙で目元を濡らす。
「必ず、幸せになります……!」
そして徐は大きな声で叫ぶと、深々と頭を下げてから、再び進み出した。
何度も何度も振り向きながら歩いている二人は、かなり時間をかけて見えなくなったのだった。
「あ~あ、あんなに泣いたんじゃあ、明日すごく顔が腫れるだろうなぁ。
けどいいものですね、誰かが幸せそうにしている顔っていうのは」
雨妹はなんだかやり切った気分でそう言った。
「まあ、こちらまでなにやら爽やかな気分にはなるな」
この言葉にそう述べる立勇に、「ですよね!」と雨妹は応じる。
「人助けをしてモヤモヤが晴れて、なんだかんだで徐さんの琵琶も聴けて、私としてはすっごくお得でした!」
「まあ、結果としてお前の願望は叶ったか」
雨妹の言葉に、立勇が苦笑する。
徐のことを相談した時に彼が指摘した懸念は、終わってみればおさまるところに丸くおさまったわけだ。
結局、なにごともやってみなければわからず、机上の話ばかりしていても仕方がないということだろう。
思えば、ゴミ捨て場で徐を見つけてからのあれやこれやは、すごく短期間で起きたことだ。
けど、すごく長時間徐とかかわっていた気持ちになっていた。
――私、いいことをした!
雨妹が満足感に浸っていると。
「雨妹よ、そなたはもっと広い世界と幸せを、探しに行きたいか?」
唐突に、杜が雨妹にそう言った。
「はい?」
雨妹がなんの話なのかときょとんとした顔で振り向くと、杜が真面目な顔で雨妹を見ていた。
――探しに行きたいか、ってさぁ……。
雨妹は杜の言葉の意味することを考える。
彼はつまり、雨妹も徐のように解放することができると、そう言っているのだ。
雨妹は「ははっ!」と思わず笑った。
「杜さんってば、なに言っているんですか!
私は辺境なんていう遠いところから都まで旅をしてきたんですよ?
世界の広さなんてものは、十分に身に染みていますって!
それに幸せなんて、案外すっごく近くにあったりするものだと思いますよ?」
雨妹はそう述べてから、杜の目を真っすぐに見返した。
「だから、私の幸せは私が決めるんです。
そして、今ちゃんと幸せですから!」
胸を張って告げられた言葉に、杜は目を見張り、やがて満面の笑みを浮かべた。
「……そうか、そうか! 幸せか!」
爽快だと言わんばかりの杜に、雨妹は「とりあえずですね」と続ける。
「今日のお夕飯が私の好物だったなら、今日は最高に幸せですね!
なにが食べられるかなぁ~?」
「お前は、食べ物ならなんでも好物だと答えるだろうに」
雨妹が夕飯に思いを巡らせていると、立勇からのツッコミが入る。
「ふ~んだ、好物の中でもすっごく好物と、死んでもいいくらいに好物とがあるんです!」
これに雨妹はそう言い返す。
「普通に好物はないのか?」
「わかっていませんね立勇様、美味しく食べられるものは、全て素晴らしいんですよ!」
雨妹がこの上ない真実を教えてやると、何故か立勇に呆れられてしまう。
というか、杜の前でこういうくだらない会話をできるあたり、彼もなかなかに強心臓だ。
そんな雨妹たちのやり取りを聞きながら、杜が首を捻っている。
「はて、この食い意地は誰から来たものかのう……うん?」
杜がふと空を見上げた。
釣られて雨妹も見上げると、空から白いものがフワフワと降りてきていた。
「わぁ、雪だ!」
「ほう、道理で冷えるはずだ」
雪を掴もうと手を伸ばす雨妹を眺める杜が、そう漏らす。
しばらくすれば春節、新年となる。
もうすぐ、雨妹がやってきて一年になろうとしているのだ。