204話 恩人
「でもとにかく、よかったですね徐さん。
これからどうするかはゆっくりと考えればいいんですから、まずはのんびり過ごしてくださいね」
雨妹がそう言えば、徐はその赤らんだ目元をやわらげた。
「ありがとうね。
思えばごみ捨て場でアンタに出会ってからな気がするよ、色々と急に転がり出して変わっていったのは。
おかげでこうしてここに立っているんだから、アンタは恩人だ」
この言葉に、雨妹は首を横に振る。
「いいえ、私が徐さんの人生を変えたわけではありません。
全ては徐さんのこれまでの行いの結果です。
徐さんが変わろうと思ったから、変わったんだと思いますよ?」
徐が全てを諦めてちょっかいをかけてきた商人の男に言われるがままに妓女になっていたら、そのまま不幸なことになってしまっていたことだろう。
そこへ助けの手が差し伸べられたのも、徐があがいたからこそだ。
だから、彼女は胸を張って立っていればいい。
「ふん、恩に着せていればいいのに、変な娘だよアンタって」
雨妹の言葉に、徐はくすぐったそうな顔をしてから、雨妹の隣の杜を見た。
「そちらの宦官様は、あの時あのクズ商人から助けてくれたお人だろう?
確か杜さん。
宮城まで連れてきてもらったきりだったけど、おかげ様でこうして朱仁様を待ち続けることができたんだ。
本当に感謝するよ」
徐は宮妓入りを勧めてくれた恩人の顔を、あれ以来会っていないらしいのに覚えていたようだ。
この礼の言葉に、杜は無言でにこりと笑って応じるのみだ。
「そうだ! そういえば、アンタの名を聞いていなかったよ。
さんざん世話になったっていうのに、おかしな話さ」
徐が唐突にこの事実を思い出すと、朱も「そう言えば、私もそうでしたか」と続く。
徐にはそう言えば名乗っていなかったかもしれないと雨妹も思い出すが、朱に名乗らなかったのはあえてのことだったのだけれど。
――そろそろ、名乗ってもいいかな?
雨妹は二人を隣で見守る明にちらりと視線をやると、ニコリと微笑む。
「それでは、改めて名乗りましょう。
私は張雨妹と申します。
百花宮にて、お二人の幸せをお祈りしています」
雨妹が自己紹介を述べた瞬間の、明の表情は見ものだった。
「……!?」
明の絵にかいたような驚愕の表情は、逆に笑いを誘われてしまう。
彼もさすがに、辺境まで共に旅をした赤子の名前は覚えていたと見える。
再びの幽鬼を見たかのような青白い顔になったのに、雨妹はことさら笑みを深くしてみせた。
「へえ、なんだか音が似合いの名じゃないか」
一方で、そんな明の様子に気付いていない徐が、音楽家らしくそんなことを言った。
音が似合うとは雨妹はこれまで言われたことがなく、なんだかうれしく感じる。
そんな約一名緊張感を孕んだ空気になっているが、日が暮れるのは早く、だんだんと地面に伸びる影が長くなっている。
「徐子、名残惜しいですけれど、そろそろ行きましょうか。
暗くなると危ない」
いつまでも足が動きそうにない徐に、朱がそう促す。
徐はこれに頷きつつも、行動に移せないでいる。
そんな徐に、雨妹は語り掛ける。
「徐さん、それにこれが今生の別れじゃあないんです。
許可が下りれば、私もいずれ様子を見にお屋敷を伺いますから。
また会いましょう」
「そうだね、また会えるんだものね。
おかしいや、アタシってばそれなのにグズグズしちゃって」
徐もこれが最後の時ではないのだと思い直したのか、ようやくこの場を離れる気になったようだ。
徐と朱がそれぞれに別れの挨拶をして、宮城の外へと歩き出した、その時。
「徐子よ、幸せになるのだぞ」
徐の背中に、杜がそう声をかけた。
「……!」
すると、徐が驚きの表情で振り返る。
徐が一体何に反応したのかと雨妹が首を捻っていると、「声だ」と立勇が短く告げた。
――なるほど、声か!
徐は、皇帝の姿を見たことがないと言っていた。
しかしさすがに声は覚える程度に聞いていたのだろう。
だが声で分かるとは、さすが音楽家で耳がいい。
そしてだからこそ、杜は徐の前で無言でいたのかと、雨妹は今さらながら気付く。




