173話 徐の琵琶
「はぁ、具合が悪いと聞いて見舞いを贈ったが、いつもならば礼の文が返ってくるのがなんの反応もない故、心配しておったのだが。
元々思い詰めがちな女だったゆえ、無理もないと言えるか」
杜がため息交じりにそう話すのに、雨妹はどうしようかと迷った末に、口を開く。
「あの、すごく気になっているんですけど、徐さんを宮妓にして連れて来たのって……」
「ああ、それは我であるぞ」
雨妹が皆まで口にすることなく、杜があっさりと暴露する。
――やっぱりね!
己の想像が当たった雨妹は、納得感しかない。
雨妹に聞かれた杜は昔を思い出したのか、「あの時はなぁ」とため息を吐いた。
「徐をもっと早く助けてやれなんだのが悔やまれる。
時期がちょうど色々ゴタゴタしていた頃でなぁ、我が事態を知るのが遅れてしまい、気付くと徐の恋人は国境の戦地へ旅立った後であったのよ」
杜が当時の状況をそう語る。
――なるほど、時期が悪すぎたのか。
しかし皇帝ともあろう人が、そうそう都合よく他人の不幸に合わせて暇ができて、偶然通りかかれるわけではない。
そんなご都合主義は、ドラマの中だけだ。
「それで杜様、今日は私に刑部での話を聞くために来られたのですか?」
雨妹は改めて尋ねるが、それであればわざわざここまで来ずとも、刑部からの報告を待てば良い話だ。
それか、きっと密偵のような人が情報を集めているはずで、それを聞けば良い。
だが、わざわざここまで来たということは、雨妹でなければならない用事があるのだろう。
そう考えて問うた雨妹に、杜がニコリを笑みを浮かべる。
「いやいや、それだけではなくてな、知りたいことがあったのよ。
そなたは徐子の不調の原因に心当たりがあると聞いた。
どうだ、あの者は再び琵琶を弾けそうかな?」
そして尋ねられたのは、徐の体調についてであった。
――そう言えば、そもそも始まりは徐さんの風湿病のことだったんだよね。
それがここまで大事になってしまっているが、雨妹はもちろん病気について忘れてはいない。
「結果を言うと、徐さんに出ている風湿病の症状は、軽度ではないかと思われます。
普通の人ならば日常生活にそれほど大きな支障はなく、あまり問題にしないのでしょうが、徐さんは楽師です。
そのような指先を繊細に操る職人の方にとって、己の思うように手が動かないという心理的衝撃が強くて、心の方が参ってしまったのではないでしょうか?」
この雨妹の説明に、杜が「ふむ」と顎を撫でる。
「確かにあれ程巧みな琵琶師であれば、常人と違った感覚に悩まされるものかもしれんなぁ」
そしてしみじみと頷く杜に、雨妹は聞かずにはいられない。
「あの、そんなに徐さんの琵琶って凄いんですか?
私、そもそも琵琶の音っていうのを聴いたことがないんです」
興味津々な雨妹に、杜は「ほう、気になるか」と口の端を上げる。
「徐子の琵琶の音色を聴いてしまったら、もう他の琵琶師の演奏が児戯に聴こえるだろうよ。
徐の若い頃の勢いのある音も魅力であったが、今の成熟した音もなんとも言えぬ色気があって良きものだ。
徐子は音楽に愛された女だと、我は思うぞ」
「音楽に愛された、ですか!」
それはなんと心をくすぐる表現だろうか。
―― 俄然、徐さんの琵琶を聞きたくなってきた!
「私、徐さんの琵琶を聴くために、なんだってしちゃいますよ!
やる気だけは本人次第ですが、応援は全力でやります!」
握りこぶしを突き上げて宣言する雨妹に、杜が拍手をしている。
「うむうむ、人間己の欲望に素直が一番!
もちろん他人に迷惑をかける欲は身を滅ぼすが、変に抑圧するのも歪んでしまう故なぁ」
「ですよね!」
二人して話が合って、妙に気分が盛り上がってしまう。
「……なんだろう、根本が似ているのかねぇ」
そんな自分たちを、楊が頭が痛そうな顔をして見ていることに、雨妹は気付いていなかった。




