166話 昔語り
「飯抜きになったのは、アタシがもうなにもしないって言ったからさ。
腹を空かせれば『やっぱりやる』って言うだろうって、連中は考えたみたいだね」
この徐の言葉に、男は得心がいったというように頷く。
「なるほど、教坊は飢えれば諦めて仕事をするかと考えたのか」
こう言われれば分からなくもないが、それでも雨妹としては教坊のやり方に「そうまでするか!?」と憤慨するし、抗った徐にも「そこまでするか!?」と思う。
雨妹だったらご飯を取り上げられるとしたら、よほどの悪事でない限りあっさり前言撤回をしそうである。
追い込まれてもなお琵琶を弾くことを拒んだ徐は、なにが理由だったのだろう?
雨妹が疑問顔をしていると、徐が答えを告げた。
「アタシはもう、琵琶を弾く意味を失くしてしまった、琵琶を弾きたくないんだ」
徐がそう話すと、自らの琵琶弾きの手をしている両手にじっと見入る。
「琵琶を弾きたくないって、琵琶が嫌いになったんですか?」
雨妹が尋ねると、徐はゆるゆると首を横に振る。
「好き嫌いじゃない、もう意味がないんだ……あのお方はもう死んじまったから」
そう力なく話す徐に、雨妹は首を傾げる。
――あのお方って、誰の事だろう?
雨妹が隣の立彬をちらりと見るが、あちらも怪訝な顔をしている。
どうやら初耳な話であるようだ。
そんな雨妹たちに、徐は「くっ」と喉の奥で笑う。
「アンタらは信じられないだろうけどね、アタシのこの琵琶の弾き過ぎで荒れて醜い指を、美しいと言った男がいたんだ」
徐はそう言うと、昔語りを始めた。
徐は宮妓になる前、とある大店の商家の娘として過ごしていたそうだ。
幼い頃に手習いで始めた琵琶だったが、どうやら才能があったようで演奏の腕がメキメキと上がり、次第に周囲で評判になっていったらしい。
評判を聞きつけた徐の父を訪ねる客人が噂の琵琶の音を聞きたがるようになり、徐は彼らに向けて披露していたという。
「ちょうどその頃、宴でお抱えの琵琶師に新曲を奏でさせるのが流行っていてね、『だったらアタシもやってやる』って思って、たくさん曲を作ったさ」
そうすると徐には作曲の才能もあったようで、評判がますます高まっていく。
徐よりも器量が良くて見栄えのする人気者の琵琶師はいくらでもいたが、琵琶の音で徐子に敵う者はないとまで言われていたそうだ。
「そんなに凄かったんですかぁ」
「琵琶弾きの娘の噂は、子供の頃に聞いた覚えがある気がする。
なるほど、あれが徐子であったか」
感心する雨妹の隣で、立彬も驚いている。
――立彬様の子どもの頃に聞いた噂ということは、徐さんの今の年齢は三十代くらいということか。
雨妹はそんな推測をする。
そうなると、「噂の琵琶師に会いたい」と父が催す宴席に出席したがる客人が増えてきて、当時の徐は可愛がってくれる優しい両親の仕事の手伝いができるため、とても嬉しかったという。
そんな徐だったが、だからと言って「妻に欲しい」という話は少なかったらしい。
というのも、徐は琵琶は凄腕でも、器量の方が美人というわけではなかったからだ。
酷く醜いわけではないが、人に好かれる容姿でもないというのが、本人の評価である。
容姿の良し悪しで人間の価値が決まるわけではないが、大店と付き合いのあるような偉い人たちは、他人に自慢できる妻を欲しがるものだそうだ。
その自慢の順位付けとしては、徐のように琵琶が天才的であることよりも、そこそこの腕で美人な女の方が上であるらしい。
そんな状況で徐に妻の催促をしてくるのは、誰も怪しい下心を持つ者ばかり。
徐をとりあえずお飾りの妻にして、本当の妻は別に持とうという男たちは、両親がキッパリと断っていたという。
徐が「自分は結婚しないだろう」と半ば諦めかけていた頃、ある男との出会いがあった。




