14話 張美人
明賢は用が済んだので執務室から退室した後、しばらく無言で歩いていたが。
「言わなくてよかったのですか?」
誰もいない回廊で、部下の立勇が囁くように言った。
「なにをだい?」
「医局にいた、あの宮女のことをです」
立勇が言葉を選んで告げることに、明賢は口の端を挙げた。
「全くあの娘は、どうしてこんなところに来てしまったんだか」
明賢は医局で見た宮女を思い浮かべて、苦笑を漏らす。
その宮女は珍しい髪をしており、夜空のような青みを帯びた不思議な色合いであった。
そして瞳の色は高貴の青。
名を雨妹と言い、雨の日に生まれた女の子だから雨妹だと、親にはもう少し捻って名付けて欲しかったとむくれていた。
髪の色だけであれば、似ている者がいると思うだけ。
あるいは青の瞳も、高貴なる血の末端でも受け継いだかと思われる。
しかしこの両方を持ち、なおかつ名を雨妹となれば、偶然では済まされない。
雨妹なんて適当といわれても仕方のない名を、あの赤子に付けたのは志偉だ。
宮女の管理をしている楊の話では、雨妹は辺境から集められてきた娘だそうだ。
辺境とは今から十六年前、張美人が追いやられた尼寺のある場所。
「張美人は、権力争いの煽りを受けた被害者でしたね」
「そう、優しくて穏やかで、不幸な人だったよ」
立勇の言葉に、明賢は過去を思い出すように目を伏せる。
皇太后は自身の立場をより強固なものにしようと、明賢の場合同様に己の姪を志偉に皇后として押し付けた。
そして当時の志偉には、それを跳ねのける力がなかったのだ。
皇太后は皇帝の血を引く一族の出身で、とても気位が高い。
それは姪にも当てはまり、大変美しい女であるがすぐに癇癪を振るう皇后に、志偉は辟易とする。
ゆえに志偉は皇后と形ばかりの夫婦となるつもりだった。
しかし皇后であること以上に、皇帝の生母であることこそが、後宮では意味がある。
皇太后からは子はまだかと責められ、皇后からも夜の渡りを求められる。
皇后との間に子をもうけるつもりのない志偉は一計を案じ、皇后に睡眠薬を飲ませて凌いでいた。
皇后はお嬢様育ちゆえに、そんな子供騙しに引っかかったのだろう。
夜の生活とはこんなものかと思っていたらしい。
そんな殺伐とした状況で、志偉が癒しを求めて穏やかな性格の妃嬪の元に通うのは、自然の流れだったであろう。
そうして愛を育んでいた相手が、張美人だ。
当時志偉には太子となる男子――つまりは明賢が、皇后以外の妃嬪にすでに産まれていたため、義務から解放された気持ちでもあっただろう。
やがて張美人が懐妊し、公主を産んだ。
一方で、皇后はこの状況にやきもきしていた。
他の妃嬪には子が産まれるのに、皇后には子ができない。
子作りをしていないので当たり前なのだが、皇后は子供のできない体質なのだという噂が流れるには、十分な環境だ。
それを払拭するために皇后がとった行動は、他の皇帝の一族から密かに子種を貰うことだった。
そうして懐妊した皇后は男子を産み、次代の太子はこの子だと主張する。
図らずとも、張美人の出産と同時期のことだ。
しかし、志偉が皇后と行為をしていないのに子ができるなんて不自然だと言ったことで、騒ぎになる。
後宮に密かに出入りしていた男も判明し、いよいよ糾弾というところで、皇太后が横槍を入れて来た。
『その男が張美人の元から出て来たのを、私の女官が見た』
皇太后の命で張美人の屋敷に捜索の手が入り、なんと男の持ち物だとされる物が発見される。
「そんな男も物も見たことがない」という張美人の言葉は黙殺である。後ろ盾がない張美人は、志偉が庇いたてしても皇太后には敵わなかった。
後宮では真実よりも、皇太后の意見の方が強かったのだ。
皇帝の妻たちの姦通は死罪。
当然のごとく皇太后はそれを求めたが、志偉の猛反発で辛うじて食い止める。
それでも結局後宮を追い出されることとなった張美人は、産まれたばかりの公主もろとも、辺境の尼寺に追いやられたのだ。
その後、張美人が自ら命を絶ったと聞こえてきた。
赤子の話は一切入らなかったため、一緒に死んだのだと思われていたのだが。
一方で姦通をした張本人の皇后はといえば、皇太后の保護の元、未だ後宮に居座っている。
けれど皇后の産んだ男子を太子とすることを、志偉が決して認めなかったため、その子は十五歳になった昨年後宮を出た。
だが皇后はまだ己の子を太子にする機会を狙っており、明賢も何度も毒を盛られたり刺客を送られたりとせわしない毎日だ。
おかげで跡取りを儲けようという気にならず、まだ子はいない。
そんなこう着した状態が続き、あれから十六年経った今になり、
後宮に集められた年頃の娘の中にあのような存在が混じっているなど、誰が予想できただろうか。
明賢は一度だけ、張美人に産まれた赤子を抱かせてもらったことがある。
己と同じ青い目が、まっすぐに見つめてきたのを覚えている。
「簡単に教えてしまっては、つまらないよ」
明賢はポツリと漏らす。
後宮に舞い戻って来た雨妹は、一体どういうつもりなのか。
心配であると同時に、明賢の心が浮き立つのだ。
風が止まり空気が淀んでいた場所に、愛らしくも姦しい小鳥が舞い込んだような気持ちだ。
確固たる後ろ盾のないままに雨妹が公主であることを明かせば、張美人の二の舞を起こしかねない。
雨妹はそのことをわかっているのかは定かではないが、己の出自を主張するでもなく、ただの下級宮女として働いている。
楊の話によると、雨妹は非常に働き者であるという。
医局で働いているものと思っていたが、掃除が本来の仕事だという。
なんという能力の無駄だろうか。
さらには恐らく、雨妹は字が読める。
先日名を聞けば、己の名の由来まで答えた。
それは即ち名を書くことができ、文字の意味も知っているということ。
楊も雨妹が読み書きできるとは気づいていないらしく、これも自己申告していないのだろう。
――目立ちたくないのだろうな。
そう思って、明賢も楊に余計なことを言わずにおいた。
加えて楊の話では、図らずとも張美人の住んでいた屋敷に住まう王美人の要請を受け、掃除をしに行ったのが雨妹だとか。
一部の志偉の妃嬪たちの屋敷が掃除がされず、酷いことになっていたが、一向に改善されることはなかった。
それらの妃嬪は皆、皇太后の敵対派閥の娘たちだったのだ。
仕事をしない役立たずばかりを送り付けるように手をまわす、皇太后の度重なる横槍に、流行り病での人手不足と重なって、楊も苦心していた。
特に王美人は張美人と同じく元宮女であった女で、彼女を見ていると張美人を思い出すからだろう、皇后から目の敵にされている。
そんな王美人を救ったのが雨妹とは、なんという運命の導きだろうか。
部屋に湯を張った器を置くことを最初に始めたのは王美人で、それが妃嬪の間で流行した。
そしてこれを教えたのは雨妹だという。
流行を生み出すというのは、後宮では地位を押し上げることになる。
多くの妃嬪たちが呪いに怯える中で、王美人は皇太后に追いやられた妃嬪たちと共に足場を固め始めている。
女の園は、よくも悪くも噂一つで物事が大きく動くのだ。
そのように地味に活躍している雨妹の素性がもし明らかになれば、皇太后や皇后はきっと排除か取り込みかの働きかけをかけるに違いない。
雨妹が公主と認められるということは、皇后の姦通が裁かれるということなのだから。
「というわけで立勇、定期的に雨妹の様子を見に行くようにね」
「はっ、……はあ?」
立勇は反射的に返事をした後、呆けた顔をした。
「私が、でございますか?」
「そう。だって、ほかの者に頼んだら誤解されるじゃないか」
明賢が雨妹を召し上げようとしていると噂されれば、雨妹が悪目立ちしてしまう。
もう少し様子を見て、雨妹の後宮にやって来た目的を探った後で、志偉に教えてやろうと思っているのだ。
――もしかしたら、父上への復讐かもしれないんだしね。
尼寺に捨てられた子供が、捨てた父親を恨むのはあり得る話だ。
なにより、雨妹が自身の事をどう聞いているのかも調べなければならない。
「……私も結構危うい立場なのですがね」
「頼んだからね、宦官の王立彬」
渋い顔をする立勇に、明賢はそう呼びかけた。
立彬は立勇の仕事上の名前だ。
立勇にも色々と苦労をかけている。
「ああ、忙しくなるなぁ」
言葉とは裏腹に、とても楽しそうな明賢なのだった。




