13話 明賢と志偉
玉秀が医局で目を覚ました翌日。
崔国の太子である劉明賢は、その日の午前中から腹心の部下を連れて、宮城の回廊を歩いていた。
向かうは父、志偉の執務室である。
「おはようございます、父上」
扉の外から声をかければ、官吏に囲まれて机の上に広げた書類を見ていた志偉が、顔を上げてこちらを見る。
「明賢か、どうした朝から」
その様子は見るからにやる気がなさげで無気力で、人生がつまらなそうな顔をしていた。
――相変わらずこの調子か。
二十年前は勇猛にして英明なる皇帝と言われた人であるのに、現在はまるで幽鬼のようだと言われる様である。
そんな明賢の内心など無視して志偉が言った。
「江貴妃が臥せっているのではなかったか?」
志偉も昨日の騒ぎを耳にしたらしく、「こんなところにいる場合ではないだろう」と言いたげだ。
しかし明賢は首を横に振る。
「ご心配なく、玉秀は回復しています。
昨日の夕刻に様子を見に向かったところ、体力は落ちているようですが、すっかり元気でしたから。
医局の陳先生が言うには、二、三日のうちに宮に戻せるそうですので」
「……そうか、それはよかった」
話を聞いた志偉が、目を細めて顎を撫でる。
この話は志偉のみならず、同じ部屋にいる官吏たちにも当然聞こえている。
これで玉秀を病を利用して排除する計画が失敗したことが、企んだ本人まで届くことだろう。
玉秀が狙われたのは、彼女を明賢の皇后にさせないためだ。
後宮では皇帝である志偉よりも、皇帝の母である皇太后の方が影響力が強い。
そして明賢は、皇太后の姪である皇后の子ではない。
明賢の母は、皇太后の一族とは違う派閥の一族の娘だ。
皇帝位が次代にうつる際、後宮に残れるのは皇帝の生母のみ。
このままでは皇太后子飼いの皇后は、後宮を去らねばならない。
それでは皇太后の力が弱まってしまう。
皇太后は権威欲の旺盛な女であるため、次代の皇帝位でも影響力を持ちたくて、色々と工作をしている。
この工作の一つが、明賢の皇后を自分の血筋の女にすることだ。
そうして明賢の元に送り付けられたのが、まだ成人していない十を過ぎたばかりの歳の娘であった。
そのやり過ぎぶりに、明賢は怒りを通り越して呆れるばかりである。
その娘本人は、突然母から引き離されて戸惑っている、普通の子供だ。
明賢は保護する意味合いで娘を太子宮に招き入れ、いずれ好いた男ができれば一緒にさせてやりたいと思っている。
利用されているだけで、娘に罪はない。それは玉秀も同じ意見だ。
けれど玉秀に万が一のことがあれば、自動的にこの幼い娘が皇后候補筆頭となる。
――小川に落ちた現場に例の宮女がいなければ、計画は成功していただろうけどね。
あれは明賢にとっては幸運だった。
玉秀付きの宮女や女官の入れ替えが上手く行かずに、後手に回っていた際の事故に、己とて正直絶望が過ったのだから。
明賢がその場で野次馬していた宮女らから集めさせた話によると、彼女の行いは「呪い憑き」と同じくらいに奇異で不気味な行動に見えたという。
『死人に口づけをして、胸をひどく叩いて暴行しているようだった』
その宮女らはそう言って怯えていたという。
しかし陳先生によると、彼女の行為は医者の間でもあまり知られていない、異国の人命救助法であるらしい。
そして彼女がいなければ、その救助法を試みることは難しかっただろうとも。
――私の貴妃に陳先生が口づけするのは、確かに難しいだろうね。
医療行為とはいえ、第三者の大勢いる場では姦通を疑われてしまう。
けれど不幸中の幸いというもので、彼女のおかげで玉秀は助かった。
それにこれで、事故の責任を負わせるという理由を付けて、役立たずどもを一斉に追い出せる。
そして明賢の信頼する者で固めるのだ。
今は玉秀を安全な医局に預かってもらい、いずれ玉秀につけようと事前に選定していた宮女を、すぐに側付きとして向かわせている。
安全面にも配慮し、医局周辺に密かに護衛を配置した。
食事も太子宮の台所ではなく宮女の宿舎の台所にお願いし、手の者を送り込んで安全な食事を用意させているのだ。
――決して皇太后の横槍は入れさせない。
そう決意するのはいいが、明賢の今回の訪問の本題はこれではない。
「面白いものを手に入れましたので、ぜひ父上にも差し上げようかと思いまして」
明賢は微笑みを浮かべて、父のいる机の側に寄る。
「なにか珍しいものでも手に入れたのか?」
「まあ、見てください」
明賢がそう言って背後に控える部下の立勇を振り返れば、布を被せてある盆を差し出す。
その布を、明賢が自ら外して見せた。
そして中にあったのは噴霧器だ。
「……その噴霧器が、どうかしたのか?」
思わせぶりなことをした挙句、何の変哲もない噴霧器が出て来たことに、志偉が眉をひそめる。
「父上、これは中身が大事なのですよ」
明賢は盆から噴霧器を取ると、志偉に向かって吹き付けた。
「なんだ!? 酒臭いぞ!」
「でしょうね、酒精を薄めたものが入ってますから」
顔を顰めた志偉に明賢は笑みを深める。
「医局にいた者が言っていたのです、これは今流行っている病にとても効くのだと。
これでこまめに手などに吹きつけるといいらしいですよ。
ああ、お茶を飲むのもよいと言っていましたっけね」
「……そんな話、医者から聞かされなかったぞ。あの藪が」
志偉は侍医の顔を思い浮かべたのか、顔をしかめる。
あの医者は金を使って皇太后に取り入った者なので、腕前の方は推して知るべしである。
皇帝を診るべき侍医よりも医局の医者の方が腕がいいとは、困ったものである。
「こちらは差し上げますよ。
父上には、ぜひ健康でいていただきたいですからね」
「そうか、有り難く貰っておこう」
志偉が噴霧器を受け取ると、しげしげと観察していた。