125話 心臓に悪い娘
しばし明がブツブツと独り言を呟いていたが、やがてふと雨妹を見た。
「そなたは、名はなんと?」
今更に、雨妹の名が気になったらしい。
けれどこの質問に、雨妹はニコリと微笑んだ。
「名乗るほどのものではありません。
私は百花宮のしがない掃除係ですから」
「掃除係だと……? その威圧感で?」
威圧感とは、お年頃の娘に向かって失敬な言い方だろうに。
――私、この人キライだな。
雨妹はそう心に刻みつつ、言葉を続ける。
「ただ、頼まれてたまに看護をすることはございますが。
今回だって、楊おばさんに頼まれたから、こうしてここにいるんです」
「楊に?」
思えば初めてまともに会話が成立していると言える明が、目を丸くする。
そして、ようやく本来の頼みごとに取り掛かれるのかと、ここまでの長い道のりにため息を吐く。
――全く、手のかかる大人だなぁ、この人って!
「そういうことで、ここからが私の本当のお仕事です。
ちゃっちゃと全身を診ますので李将軍、この人の服を剥いちゃってください!」
「なに……!?」
「おうよ、まかせろ!」
怯える明を、李将軍は下着姿にしてしまうまで、さして時間はかからなかった。
それから、どうなったかというと。
明は特別に、医局の陳から往診してもらえることになったのだが。
「こんなにわかりやすい症状が全部出ているとは、すごいな!」
雨妹から事前に話を聞いていた陳も、いっそ明の状態に感動したようで、あらかじめ連れて来ていた知り合いの絵師に明の姿を描かせていた。
「これで、医術が一歩前進しますね」
「ああ、非常に助かる。
まさか、こんな典型的な状態が拝めるとは。
普通はこうなる前に墓場に行ってしまうんだよ」
「なら、明様の身体の頑丈さに感謝ですね」
そう言って「ハハハ」と笑い合う雨妹と陳の会話を、明が震えながら恐ろし気に眺めている。
「おめぇは、妙なところで肝っ玉が小せぇなぁ」
その様子を、明の上司として立ち会っている李将軍が呆れた様子で見るのだった。
これから今後、この痛風の病を説明するのに、明の絵姿が使われることであろう。
そんなことをやっていると、いつの間にか中秋節となっていた。
***
中秋節は、どこの宮の台所でも月餅作りに忙しい。
季節の行事を華やかに行うことが、宮の格を上げることになるからだ。
そんな中、立勇は月餅を詰めた包みを持って、乾清門を抜けて後宮に入ろうとしていた。
明の一件を聞いた明賢が雨妹の心配をしているので、様子を伺いに向かっているのだ。
月餅はおそらくあちらでも既に手に入れているだろうが、たとえ被ったとしても、雨妹であれば食べ比べができると喜ぶだろうと思っている。
そして宦官服に着替えるため、隠し部屋のある物置に入ろうとして、一応周囲を確認していると。
「よぉ、立勇」
そう背後から呼ばれ、見れば李将軍がいた。
「よう、これからお勤めか?」
「……そうです」
李将軍からの問いかけに、立勇は頷くに留める。
李将軍は立勇の二重生活を知っている、数少ない一人であった。
そんな彼が、わざわざ立勇を呼び止めるとは、なにかのっぴきならない用事でもあるのだろうか?
そう考えた立勇が緊張していると。
「あのいつかお前さんが連れていた娘っ子、ずいぶんな貫禄だなぁ。
とても成人したばかりのひよっこには見えねぇ」
言われたことは、雨妹についてであった。
――あの後、李将軍が雨妹の外出に付き添ったのだったか。
明賢が気にしていた情報の一つを思い浮かべ、立勇は眉をひそめる。
李将軍を動かせるのは、皇帝を置いて他にいない。
かのお方は、一体どういうつもりで李将軍を雨妹に付き添わせたのか?
そしてそれほどのことが、あの明にあるのか?
明賢はそこをとても気にしていた。
「……あの娘、なにかやらかしましたか?」
立勇が慎重に問いかけるのに、李将軍が「そうじゃねぇが」と首を横に振って話すには。
「底知れねぇ嬢ちゃんだな、ありゃあ」
「まあそれは、わかりますが」
雨妹が底知れないというか、たまに意味不明な言動をするのは、立勇にとってはいつものことであるのだが。
しかし、続いた言葉にギョッとする。
「いやぁ、あの一喝なんて、人生経験の浅い娘っ子のものではない。
まるで戦場での陛下のようであった」
「一喝?」
――李将軍の前でなにをしたのだ、あの娘は!?
頭痛がしそうになるのを堪える立勇に、李将軍がにやけ顔ながらも鋭い目を向けてくる。
「生まれ以外にもありゃあ、なにか不思議があるぞ?」
戦場で敵を見分けるようなその目に、立勇はぐっと背筋に力を入れる。
「それは、こちらでも気付いておりますが」
「それがなんなのか、気にならねぇか?」
立勇の言葉に、畳みかけるように李将軍が聞いてくる。
これに、立勇は微かに迷った末、口を開く。
「気にならないと言えば、嘘になりますが。
恐らくはその不思議も含んだ丸ごとで、『雨妹』なのだと思います。
これは明賢様も同様にお考えであると確信しております」
「ほぅ」
キッパリと断言する立勇に、李将軍が眉を上げる。
「多少おかしな言動がありますが。
それがなかったら、むしろ物足りない気持ちになるのではないでしょうか?」
立勇の言葉に、李将軍が目を丸くすると、「ガハハ」と大口を開けて笑った。
「なるほど、そうかもしれねぇな!」
そう告げて、満足そうな顔をした李将軍は、ふらりとどこかへと去っていく。
――全く、気を揉まされることだ。
あの娘は離れていても心臓に悪いことをしてくれる、と立勇は大きく息を吐いた。
***




