プロローグ
プロローグ
月明かりのない、新月の夜。
冷たく淀んだ空気は、大地をどこまでも満たし、漆黒にも近い闇夜が天を支配する。
静寂に包まれた世界の中で、まるで反旗を翻すように、赤い炎が立ち上る。
視界は真っ赤に染まっていた。何が起きたかは分からなかった。けれど、その時「俺」は走り出していた。
煙が視界を塞ぐ。焦げた臭気が鼻腔を掠める。悲鳴が耳をつんざく。熱気が喉を灼いていく。
それでも「俺」は走り続けた。
右手の確かな温もりを感じながら。
大人達は「あれ」が来たのだと、絶望に満ちた顔で立ち尽くす。生きることを放棄した、諦めの顔だ。それほどの災厄が、ここに訪れたのだろう。しかし、「俺」にはそんな事はどうでも良かった。ここから逃げ出す。それが願いで、希望だった。
大人達がこちらに気付き、逃亡を阻止しようとしてくる。その手を掻い潜り、「俺」は少女と共に走り続ける。物々しい機械を飛び越え、生命の神秘を再現した装置を横目に、ただ、ひた走った。
その最中にも、「俺」は少女の名を呼び続けた。何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。その度に、少女の可声が返ってくる。それに安堵しながらも、回数を重ねるたび弱くなっていくその声に、焦燥感を覚える。意味はないのかもしれない。けれど、拭えぬ不安を払拭するために、己の心を奮い起たせるために、声をかけ続けた。
燃え上がる炎は、幼い身体を容赦なく灼いていく。腕も、脚も、顔も、火傷だけでは済まなかった。痣や切り傷も無数に出来ていた。それでも、少女の手は離さなかった。
もう、独りにはしないと決めたから。ずっと二人だと約束したから。ヤクソクしたのに――――――。
「――――――っ!!!」
声にならない絶叫が出る。目指していた出口まで、あと数歩のところで、天井が崩落した。この時だけ、意識が天井に行ってしまった。自分の安全を、優先してしまった。彼女がどんな行動に出るかなんて、分かりきっていたはずなのに。
右手に感じていた温もりが逃げ、背中に軽い衝撃を受ける。
「――――――え?」
随分と間抜けな声が出るものだと思った。背中に力を受けた身体は、物理法則に則って、開きっぱなしの窓から投げ出された。
世界が引き延ばされる。全てが止まって見えた。揺れる炎も、渦巻く煙も、倒壊していく建物も、己自身も。
咄嗟に振り返ろうとしたが、身体が拒絶するかのように動かなかった。いや、拒絶しているのは自分だ。拒んでいるのは、「俺」だ。
振り返らずとも、分かったから。少女が何をしたのか、分かってしまったから。どんな顔をしているのかなんて、容易に想像できてしまったから。
意識が遠のき、黒に染まっていく視界の中で、君は――――――