大坂の陣小噺
もしかしたらこんな会話があったかもしれないシリーズ。
ふと思いついて2時間ほどで書き上げました。
歴史好きの自己満小説です(笑)
大坂城。
かつて天下人豊臣秀吉の居城としてそびえ立った巨城は、慶長20年5月7日夜、紅蓮の炎に包まれた。包囲方、大御所・徳川家康率いる幕府軍の一員として参加していた筑前国福岡藩主・黒田筑前守長政は、自陣からボンヤリと立ち尽くしてその光景を眺めていた。
合戦は幕府軍の大勝利。真田信繁や毛利勝永といった浪人を中心にした豊臣軍は大御所の家康と将軍の秀忠の本陣を幾度も脅かしたが、次第に数で勝る幕府軍は豊臣軍を圧倒。野戦で敗れた豊臣軍は大坂城内に退却したものの、昨年の戦役後に堀を埋められて丸裸にされた大坂城に幕府の大軍を防ぐことは不可能だった。
そして今。大坂城の天守閣は炎に包まれ、暗くなった今も全く火の勢いが衰える気配がない。その天守閣を眺めていると、兵が長政のもとへ駆けてきた。
「申し上げます!竹中丹後守様、お越しにございます」
長政の陣を訪問したのは美濃国菩提山城主・竹中丹後守重門。父は長政の父と同じく豊臣秀吉に仕えた参謀竹中半兵衛重治である。長政と重門は幼馴染であり、二人の父はともに秀吉に参謀として仕えていた。
「・・・やはりお父上が縄張りをされた城が燃えるのを見るのは辛いですか」
長政の父黒田如水は大坂城の築城総奉行として築城作業の責任者であった。
「・・・いや。これで戦国が終わるのだな、と思ってな。なにか、不思議な気分なのだ・・・」
「左様。もう今日を最後に今日は夫が死に、明日は息子が死ぬような日々は終わるのです。今の大坂城は、言うならば戦国という忌まわしき時代を火葬しているようにも見えますな」
「戦国を火葬、か。上手い事を言うのぅ」
しばらく二人並んで他愛のない話をした。筑前の長政と美濃の重門、なかなかゆっくりと話をすることもない。そのなかで、ポツリと口を開いたのは長政であった。
「吉助。そなた、これからどうする」
「どうする、とは?」
「江戸幕府のもと、太平の世が訪れよう。民草はそれでよいかもしれん。だがこれから我らはどうやって生きていけばいい」
「わしにはな、夢があった」
長政は今朝、豊臣軍が布陣していた台地を見渡した。
「福岡の領主として五十二万石を賜り、二万の兵を従える立場になった。わしはこの軍勢を手足のように動かしてみたかったのだ」
長政の生涯の戦はすべて秀吉か家康のもとで戦った、彼らを勝利に導くための合戦であった。彼は自らが総大将として全軍の指揮を執ってみたかったのだ。
「・・・確かに、我らのように戦国の世に生きた者は不要になるかもしれませぬ。蔵に置かれた弓のように、無用の長物なるかもしれませぬ」
しかし、と重門は笑みを浮かべて続けた。
「後世の若者たちに戦国の世に散った勇者たちの記憶を語り継ぐのも、我ら戦国の世を乗り越えた者たちの役目ではござらんか」
「関ヶ原の島左近のような者の雄姿を、か―――」
「ところでそなたはどうするのだ。わしのことばかり話して結局そなたの話を聞けておらぬ」
重門は少し考える素振りを見せ、口を開いた。
「少々執筆活動を始めてみようかと思います」
「執筆を?」
「はい。我が父は美濃斎藤家を辞した後、隠棲して書生のような暮らしをされていたとか。私も父に倣い・・・というわけではありませんが、書に親しみ、執筆活動を始めてみたいと思いまする」
「書に親しむ・・・か。わしも書を記するとしようか」
「ちなみに、どのような物を書かれるおつもりで」
「息子への家訓よ」
彼は溜息を吐いた。
黒田長政(1568~1623)
黒田如水(孝高)の長男。通称は吉兵衛。官位は従四位下甲斐守・筑前守。筑前国福岡藩初代藩主。
幼少時は織田家の人質として羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に預けられた。父が荒木村重に幽閉された折り、孝高が寝返ったとして処刑命令が出されるが、秀吉の参謀・竹中重治の機転により命を長らえた。
成長後は知略に秀でた父とは違い、武勇に秀でた武将として活躍したが、関ヶ原の戦いでは東軍総帥の徳川家康の参謀として西軍の切り崩し工作を行い、東軍を勝利に導いた。
戦功として豊前国中津十三万石から筑前国名島五十二万石に加増転封となり、居城を名島城から福岡城に移す。この時に城下町の名を福岡と改めたが、これは黒田家の故地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内長船町福岡)に因む。
嫡男の黒田忠之の器量を心配し、家訓(御定則)を残したと言われているが、後世の創作ともいわれている。
竹中重門(1573~1631)
豊臣秀吉の参謀として活躍しながらも、三十五歳の若さで亡くなった竹中半兵衛重治の長男。幼名は吉助。官位は従五位下丹後守。
父と同じく豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐などに従軍。朝鮮の役では軍目付として渡海した。
関ヶ原の戦いでは当初は西軍に属すも、東軍に寝返る。関ヶ原本戦では黒田長政とともに最前線で戦い、西軍主力大名のひとりだった小西行長の捕縛に成功。また、戦場となった関ヶ原は重門の所領であり、家康から戦没者の供養料を下賜された。
戦後は居城を菩提山城から麓の竹中氏陣屋に移し、子孫は岩出山六千石(のちに分家を輩出し五千石となる)を代々継承する幕府旗本として存続した。
『木曽記』と『しぐれ記』という旅行記を二冊と、『豊鑑』という豊臣秀吉の伝記を著している。