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大井川先輩の労働争議

「さっちゃんがバイト始めたらしいよ」

 二日前、廊下ですれ違った内野先輩にそう聞かされた瞬間からもうすでに嫌な予感はしていた。

 嫌な予感も、的中している現場をの当たりにするというき目に会いさえしなければ所詮しょせん実害はない。だが、ボクの行く先必ず大井川先輩の姿あり。あるいはその逆か。とにかく今年の四月からこっち、ボクと大井川先輩という二本の線は、どこかで必ず交わることを運命付けられてしまったらしい。

 …神様、その仕打ちあんまりです。




 土曜日の午前十一時、市立図書館で北斎の画集を返却したボクは自転車で自分の家を目指していた。ふと喉の渇きを覚えて自販機でもないかと周囲を見回してると、ある角を曲がったところで白と青の見慣れたコンビニの看板が目に入ってくる。

 迂闊うかつなことに、普段あまりこちらに来ることがないボクはここが大井川先輩の家の近くであることなど気にもめていなかった。自分の迂闊うかつさを思い知らされたのはコンビニの自動扉が開いた直後のことだ。

 入ってすぐ左側の棚の前に屈み込んで、一人の女性店員がやる気の無さそうな動きで商品を補充していた。その後ろ姿にボクはかすかな既視感を覚える。ヘアゴムで結わえた髪に一瞬(だま)されそうになるが、このわずかにのぞく横顔にはどこか見覚えが…。

 間違いない、普段見慣れないコンビニの制服姿だが、この人確かに大井川先輩だ。

 これはなんと言うか、自ら地獄の扉を開いてしまったらしい。今更ながら内野先輩から詳細な情報を入手しておかなかった自分の不手際ふてぎわを呪う。

 思わずその場で回れ右をしようとかかとに体重を掛けた瞬間「いらっしゃいませ」と男性店員に声を掛けられた。

 くっ、余計なコトを!

 だが大井川先輩はこちらを振り向きもせず、明らかに惰性だせいで「いらっしゃいませー」とだるそうに口にしただけだった。

 しめた。先輩、ボクに気づかない。

 見れば、今レジに入っているのは先程ボクに声を掛けた店長とおぼしき男性店員だ。これなら素早く飲み物を購入して、先輩に気づかれずに店を出られるかも。

 意を決したボクは先輩の背後を通過し、店舗の後方にあるペットボトルが並べられた冷蔵庫へ向かう。この棚を右に回り込みさえすれば、もう先輩から姿を見られる心配はない。

 あと少しで先輩の視界から姿を隠せるというその直前、背後から聞こえた「あっ」という声に思わず足を止めてしまった。失敗した、そのまま知らんぷりして歩き去るべきだったのに。

「もしかして、陽輔じゃないか!?」

 なんか知らないがスゴく嬉しそうな声だ、大井川先輩。

「イエ、ワタシハヨウスケデハアリマセーン」(※プライバシー保護のため、一部音声を変えております)

 子供だましと笑うなかれ。大井川先輩が相手なら、こんな手でも十分チャンスはある。

「オー、ソーリー! アイアムサトーコ! オーケイ?」

 ほらね、だませた! だけどなぜか状況が悪化してる!

 先輩が立ち上がってこちらに寄ってくる気配を背後から感じる。先輩の無駄スキル『(ゼロ)距離コミュニケーション』がよりによってこんな時に炸裂か。

 慌てたボクが紅茶のペットボトルを素早く手に取り、レジに向かって全速力で方向転換するも、タッチの差で先輩がボクの進行方向に回り込んだ。目と鼻の先には、目をパチクリさせた大井川先輩の顔。

「あ、先輩こんにちは。奇遇ですね」

 ええい、ままよ。もう開き直るくらいしかボクに残された道はない。

 さすがの大井川先輩もだんだん事情が飲み込めてきたのか、表情が次第に険しくなる。

「オー、コンニチハヨースケ。ハウ アー ユー?」

 そう来ましたか。そのネチネチ感(あふ)れるイントネーションがたまりませんね。あと、目がコワイです。

「…なぜ逃げようとした?」

 低い声でボクを威嚇いかくしながら先輩が詰め寄って来た。

「別に逃げてませんケド…」

「今の言葉、私の目を見てもう一度言ってみろ」

「ゴメンナサイ、逃げました」

 髪をまとめた先輩がいつもより大人びて見えるせいか、思わずあっさりと降伏してしまう。ホント今日の先輩、まるで年上のお姉様みたいだ。………違う、もともと年上だった。

「まっとうな労働に汗する私を見掛けて声も掛けないなんて、随分ずいぶん冷たいじゃないか、陽輔」

 目を細め、意地悪そうな微笑みを口元にたたえた先輩がここぞとばかりにボクをいたぶる。

「先輩のまっとうな労働をさまたげてはいけないと思いまして…」

 いくら七月間近といっても、空調の効いたコンビニでこんなに汗が出るのはやっぱり普通じゃない。

「お取り込み中に申し訳ないけど…」

 突然割り込んできた声に、ボクも先輩も思わずビクッとした。見ればさっきまでレジに入っていた店長さんらしき男の人が、いつの間にか先輩の後ろに立っている。

「…大井川さん、商品補充まだ途中だよ?」

 これは思わぬところから天の助け。

「そ、そうですよ先輩。早く作業終わらせないと」

 だが当の先輩はまったく危機感(ゼロ)。いたってノンビリした口ぶりで平然とのたまう。

「ああ、ぜんぜん問題ない。あんな一日に一つ売れるかどうかという商品、補充が少し遅れたからって何も影響はないさ」

 …もしそうだとしても、雇い主の前でそれを言うのはちょっとどうなんでしょうか、先輩。

 案の定、気の弱そうに見える店長さんも先輩の言葉に渋い顔をしている。これはちょっとマズイ。

「先輩、そんなコト言ってないで早く補充済ませてきて下さいよ」

 ボクは自分のことみたいにあせりながら先輩の背中を押した。

「むう。じゃああと二十分で上がりだから、それまで待っていてくれるか?」

 先輩がムクれたような顔で訴える。

「分かりました。ちゃんと待ってますから、仕事済ませてきて下さい」

「…分かった」

 ボクのその言葉に、先輩は不承々々(ふしょうぶしょう)ながらやっと作業中の棚のところへ戻って行った。

「「ふうっ…」」

 期せずして溜め息をシンクロさせたボクと店長さんが、思わず互いに顔を見合わせる。

「…キミは大井川さんの彼氏?」

 店長さんがちょっと疲れたような笑顔でボクに問い掛けた。

「そうかれると、『キミは脱走した死刑囚?』とかれたような気分になります…」

「………ゴメン」

 …いや、こっちこそスイマセン。そんな深刻な顔をさせるつもりじゃなかったんです。

「いえ…、ボク、学校の後輩です」

「ああ、そうなんだ」

「あの、これ会計してもらえますか」

 ボクは手にしたペットボトルをヒョイとさし上げた。それにしても、たった一本の紅茶を手に入れるのに随分手間取ったものだ。もしかしたら手に入れた紅茶の容量より、さっき先輩ににらまれて流した冷や汗の量の方が多いんじゃないか?

「…大井川先輩って、仕事ぶりはどうなんですか?」

 レジを操作する店長さんに小声で質問する。

 店長さんは商品補充を渋々(しぶしぶ)再開した先輩の方にチラリと目をやり、溜め息を一つついた。

「この前さ、オニギリの発注数を一桁多く間違えたんだよ、彼女」

「…致命的ミスですね、ソレ」

 他人事ながら、ボクは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「ところがね、『発注数、(ゼロ)が一つ多かったよ』って注意したら、彼女こう言ったんだ…」

 そう物憂ものうげにつぶやく店長さんの顔がみるみる悲嘆に暮れていく。

「…『(ゼロ)っていうのは何もない、ってコトですよ。何もないものが一つ増えたからって、別にどうってことないじゃないですか』ってさ」

 スゴい。「(ゼロ)の発見」を無に帰する暴論だ。

「小さな子供にお菓子の味をかれて、その場で袋を開けて一緒に味見を始めたこともあったなあ…」

 …店長さんが遠い目になっちゃってる。なんか可哀想。

「そもそも、何であの人を採用したんです?」

 思わずボクはこの一連の悲劇の元凶に迫る質問を口にした。それに対し、店長さんは歯切れの悪い口調で途切れ途切れに答える。

「いや、面接の時から変わったコだなぁとは思ってたんだ。でも大井川さん、あの通り綺麗なコでしょ? 男性客の来店が増えるんじゃないかと期待しちゃってさ…」

 ああ、この人リスクリターンの見極めが下手ヘタ過ぎだ。株や投資には絶対手を出さない方がイイ。

 ボクが溜め息をつきながら飲み物とお釣りを受け取ると、商品補充を終わらせた先輩が走り寄って来た。

「店長! 今日はもう上がっていいですよね? どうせ上がり時間までもう五分くらいだし」

「逆にあと五分しかないんだから、ちゃんと仕事しましょうよ」

 ボクは店長さんの目を気にしながら先輩に懇願こんがんする。

「陽輔、あんまり細かいコトを気にしてるとハゲるぞ、うちの店長みたいに」

 思わず店長さんの頭に目をやってしまったボクも悪い。確かに悪い。だけどやっぱり先輩は、自分の首を自分で絞めたんだとボクは思う。


 大井川先輩がバイトをクビになったと内野先輩から聞いたのは、翌週の火曜日のことだった。

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