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鬼の撹乱、陽輔の錯乱

 その日、異変に気付いたのは二限目が終わった後だった。休み時間独特の平和な教室のざわめきの中、朝からずっと感じていた違和感が急激に頭の中で明確な言葉に変わる。


 “こんな平和な休み時間なんて、あるはずがない”


 あるはずのない物が、今実際ここにある。その理由にはすぐに思い至った。いつもの大井川先輩の襲撃が今日はないからだ。しかも朝から一度も。

 嫌な予感がした。四月に大井川先輩と知り合って以来、何度となく思い知らされた人生の真理。


 “平和で幸せな時間はいつか終わる”


 …これはきっと嵐の前の静けさに違いない。

 だがボクの予想に反して、今日の平和は安定的に持続した。昼休みになった今に至るも、襲撃はおろか大井川先輩の顔すら一度も見掛けていない。

 ボクはいつだったか内野先輩と初めて話した体育館脇の階段に座って、一人心静かに弁当を堪能たんのうしていた。

 ここで昼休みを過ごしていれば、また内野先輩がボクを見掛けて声を掛けてくれるんじゃないかという期待がまったく無かったかと言えばウソになる。ウソにはなるが「あ、やっぱりココだった」という内野先輩の声が背後から聞こえた時は、やはり意外さのあまりちょっとビクッとした。

「う、内野先輩?」

 ボクはドギマギしながら自分の隣に腰を下ろす内野先輩に目を向けた。

 先輩はボクの弁当箱から玉子焼きを一切れつまみ上げると、ひょいと自分の口に放り込む。そして「ふむ」と少し鼻にかかったような嘆息を漏らし、口をモグモグさせながらボクに向かってサムアップして見せた。関係ないケド、先輩のつややかで瑞々(みずみず)しい唇がモニョモニョと動くさまというのは、なぜか見てはいけないモノを見ているような気分にさせられる。

「ひょうふぁしゃっふぁむふぁうぃあいはら…」

 口元を手で押さえながら内野先輩がモゴモゴと何事かしゃべろうとした。

「いいですよ先輩。玉子焼き飲み込んでからで」

 コクンとうなづきながら先輩が口の中の玉子焼きを飲み下す。

「…んくっ………。今日はさっちゃんが居ないから、ヨーちゃんきっとココだろうなって思って来てみた。案の定だったね」

 内野先輩のその言葉が気になった。というより、言葉のとある部分が引っ掛かった。

「もしかして大井川先輩、今日休みなんですか?」

 それならいつもの容赦ようしゃない襲撃が今日に限って無いのも納得できる。

「うん。風邪引いて熱出ちゃったんだって」

 それを聞いたとたん、ボクは思わず吹き出していた。

「風邪? あの大井川先輩が?」

 ダメだ。込み上げて来る笑いが止まらない。そんなボクを内野先輩が不思議そうな目で見ている。

「何で笑うの? さっちゃんだって風邪くらい引くでしょ?」

「…だってよく言うじゃないですか。『何とかは風邪引かない』って」

「あー! ヨーちゃんヒドーい!!!」

 内野先輩がボクを指差しながら、まるで自分が言われたかのようにプクッと頬を膨らませた。

「いや…」

 そこでボクはハタと思い付いた。そう言えばもう六月も下旬だ。これはつまり…。

「…『夏風邪は何とかが引く』とも言いますね」

「こらぁ!」

 内野先輩のほっぺがさらに膨らむ。リスみたいで何かカワイイな。

「そんなコト言って、ヨーちゃんだってさっちゃんが居なくて寂しそうだったクセに」

 えー? さすがにソレはないですよ、内野先輩。

「そんな顔してもダメ! 今日の帰り、ちゃんとお見舞いに行ってあげるんだよ!?」

「えぇ~!!!?」

 今度は思わず口に出た。

「『えぇ~』じゃないの! さっちゃん、もうヨーちゃんが居ないと生きていけないカラダになっちゃってるんだから、ちゃんと責任取りなさい!」

 内野先輩の言葉に、背中を冷たい汗が伝う。

「何か人聞きが悪いんですケド。ぜんぜん違う意味に聞こえちゃうんですケド」

「でも事実だよ~。ヨーちゃん」

 聖母みたいな笑顔で悪魔のような言葉を口にする先輩。

「あと、私までヨーちゃん無しで生きていけないカラダになったら、そっちもちゃんと責任取ってね?」




 放課後、ボクはお見舞いの入ったスーパーのレジ袋を片手に、大井川先輩の家の呼び鈴(チャイム)を鳴らした。何とまあ、わざわざ自分から虎の穴に踏み込むハメになるとは。

 しばらく待つが、誰もインターホンに応答しない。

 そういえば先輩のお母さん、パートをしてるって聞いたことがあるけど、もしかして留守なのか? だとすると、今この家にはインターホンにも出られないほど弱った先輩が一人きり?

 ボクはポケットからスマホを取り出すと、先輩の番号を呼び出して発信キーを押した。

「………陽輔?」

 何度かの呼び出し音のあと、先輩の弱々しい声が電話から聞こえる。

「先輩!? 大丈夫ですか?」

「………今のチャイム、陽輔か?」

「ええ。今、先輩の家の前にいます」

 なんかそんな怪談があったような気がするが、今は冗談やってる場合じゃない。

「もしかして、見舞いに来てくれたのか?」

 電話越しに聞こえてくる先輩の呼吸が荒い。かなり熱が高そうだ。

「はい、そうです。先輩、玄関開けてください」

「………すまない、起きるのもちょっときつい。門を入って、そのまま庭に廻ってくれないか。居間の左側の窓は鍵が開いてるはずだから」

「分かりました」

 通話を切って指示に従うも、よく考えたらずいぶん無用心な話じゃないか? それって。

 先輩の言った通り居間の窓から家に入ると、ボクはそのまま二階の先輩の部屋へ向かった。何だかいつの間にやら「勝手知ったる他人の家」になりつつある。

「先輩!?」

 焦りながら部屋のドアをノックすると、「入ってくれ」という消え入りそうな先輩の声が返ってきた。

「失礼します」

 そう言ってドアを開けたボクの目に入って来たのは、ベットにぐったりと横たわって苦しそうにあえぐ先輩の姿。顔は火照ほてって真っ赤になっているし、首筋までぐっしょりと汗をかいている。

「大丈夫ですか!? 先輩」

「陽輔。すまないな、わざわざ来てくれて」

 思わず駆け寄ったボクに、先輩が熱でうるんだ瞳を向けて笑い掛けた。額に手を当てると、まるでおこりにでもかかっているみたいな熱さだ。

「先輩、薬は?」

 先輩は黙って首を横に振る。

「ダメじゃないですか、こんなに熱があるのに!」

「食欲がなくて、何も食べられないんだ」

 まさか、あの先輩が食欲を無くすほど弱ってるなんて。夕食までもたずに餓死することが懸念けねんされる先輩が。

「少しでもいいから、何か食べましょう」

 ボクは持ってきたお見舞いを袋から取り出した。

「プリン、ヨーグルト…、ゼリーもありますよ。何か食べられそうなモノありますか?」

「……ゼリーがいいな…」

「分かりました」

「陽輔…」

 フルーツゼリーのフタを開けるボクに先輩がささやいた。いや、ささやいたんじゃない。単に声が出ないんだ。

「はい」

「…食べさせてくれるか?」

「…もちろんですよ」

 相手は病人だ。恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。

 ボクが一匙ひとさじづつ口に運ぶゼリーを、先輩は時間を掛けてゆっくりと食べた。

「………おいしいな」

 先輩がニッコリと微笑む。

 何でだろう、こんなに胸が締め付けられるような気持ちになるのは。

「よかったですね。これを食べたら、薬を飲みましょう」

 かつて見たこともないような殊勝しゅしょうな顔で、先輩がコクリとうなづく。

 何とかゼリーを全部食べさせて薬を飲ませると、先輩の様子も少し落ち着きを取り戻した。

「陽輔、頼みがあるんだ」

 先輩が焦点の戻った目でボクを見つめながら、ちょっと顔を赤くする。違うかな。熱のせいで赤いのかな?

「何ですか? 今日はだいたいのことなら聞きますよ」

「汗をかいたからちょっと着替えたいんだが、その前に…」

 先輩が顔を半分フトンに埋めて、何事かゴニョゴニョと口ごもった。

「何て言ったんです?」

「……の…せを……いて…」

 …?

「すいません、もう一度」

「……ドSめ…」

 先輩がポソッとつぶやく。

 またそのネタですか? 分かりました。いいですよもう、ドSでも。

「…背中の汗を拭いて欲しいんだ」

「………え゛?」

 そ、それはちょっと、さすがに…。

「頼む。前は自分でできるから」

 先輩はそう言うと、ボクの返事も待たずに上半身を起こし、こちらに背中を向けて着ていたパジャマを脱ぎ始めた。

「せ、先輩! ちょっとちょっと!!!」

 ボクの叫び声にも返事をせず、先輩は背中に掛かった髪を肩越しに前へ流す。

 目の前の光景に、ボクは我知らずゴクリと唾を飲み込んだ。

 首筋から肩、肩甲骨、そしてわきから腰へかけてのあらゆるラインが、神の手による完璧な曲線によって形作られている。あらためて思い知らされるが、元々この人は学校で一、二を争う美少女だ。振る舞いさえ普通にしていれば男子たちが放っておかないだろうに。まったくもったいない。

「…陽輔?」

 先輩の声にハッとして、意識せずに枕元のタオルを手に取る。

「……じ、じゃあ、失礼します」

 震える手で先輩の華奢きゃしゃな背中をそっとぬぐった。桜色に上気した先輩の肌は絹のように滑らかで、時折先輩の口から漏れる吐息も変に刺激的だ。こ、これは破壊力バツグン。

 汗を拭き終わり、ボクが後ろを向いている間に着替えを済ませた先輩は、薬が効き始めたせいかうつらうつらと眠りに落ちて行った。

 ボクはベットの脇に座って先輩の寝顔をじっと見つめる。

 本当にビックリした。まさかこんなに先輩の具合が悪いとは。さっき学校で内野先輩に「夏風邪は何とかが引く」なんて軽口を叩いたのが悔やまれる。

 先輩の額にそっと手を乗せると、「陽輔…」と先輩がうわ言のようにボクの名を呼んだ。

「大丈夫です。ちゃんとここに居ますよ」

 思わず子供をあやすような口調で先輩の寝顔に話し掛ける。

 イヤだ、イヤだ、イヤだ。こんな元気のない先輩はイヤだ。どんなにおバカでも、はた迷惑でも、傍若無人ぼうじゃくぶじんでも、大井川先輩にはやっぱり元気でいて欲しい。

 

 “そんなコト言って、ヨーちゃんだってさっちゃんが居なくて寂しそうだったクセに”

 

 昼間の内野先輩の言葉を思い出す。

 そうだったのかな。ボク、本当は先輩が居なくて寂しかったのかな。

「………陽輔?」

 不意に呼び掛けられてハッとした。いつの間にか先輩が目を開けてボクの顔を見上げている。

「なぜ泣いているんだ?」

 そう言われて、初めて自分の頬を涙が伝っているのに気がついた。

「な、何でもないです!」

 ゴシゴシと慌てて頬をぬぐう。

「そんなコトより、早く風邪直して下さい!」

 ニッコリ笑った先輩が、ボクの頬に手を伸ばしながらうなづいた。




 翌日の朝、学校の駐輪場に自転車を停めて鍵を掛けると、ボクはゆっくりとした足取りで昇降口へ向かった。

 結局ボクは昨日、先輩のお母さんがパートから戻るまで先輩に付き添ってから大井川家を辞した。恐縮したお母さんがしきりに夕食を食べていけと勧めるのを断って先輩の部屋を出る時、何とも説明しがたい表情をした先輩と目が合ったのが印象に残っている。

 まあ今日一日休めば、先輩もきっと明日には学校に出てこられるだろう。

「ヨーちゃん」

 背後からの呼び掛けに振り向くと、内野先輩がパタパタとこちらに駆け寄ってくるところだった。

「お早うございます」

「おはよ! 昨日さっちゃんのお見舞い行った?」

 軽く息を弾ませながら内野先輩がボクの横に並ぶ。

「はい。思ったより具合悪そうだったんで、ちょっと焦りました」

「大丈夫なの、さっちゃん!?」

 先輩が目を丸くしてボクの腕をつかんだ。

「大丈夫ですよ。薬もちゃんと…」

「みかっち! その手を放せえ!!!」

 ボクの言葉が聞きなれた叫び声にさえぎられる。

「大井川先輩!?」

「さっちゃん!?」

 振り返ったボクと内野先輩の視線の先に現れたのは、誰あろう噂の渦中かちゅうの人物、大井川先輩。

「もう出てきて大丈夫なんですか!?」

 駆け寄ってきた大井川先輩の額に思わず手を伸ばしかけて止める。さすがに人前でそれはかなり照れ臭い。

「大丈夫だ。昨日陽輔が一所懸命に看病してくれたお陰だな」

 先輩が普段通りのテンションでまくし立てた。

「ふーん、そんな一所懸命だったんだ?」

 内野先輩のからかうような視線がボクに容赦ようしゃなく突き刺さる。

「べ、別に普通ですよ! あれくらい」

思わず歩調を速めて二人を引き離しにかかった。周りに他の生徒達もいるのに、今その話題は勘弁かんべんして欲しい。

 だがそんなボクの心の内などおかまいなしに、大井川先輩が後ろからボクの腕をガッとつかんで引き戻す。

「何だ陽輔。昨日は涙を流すくらい心配してくれたのに」

「わあぁぁぁ!!! 先輩ちょっとおぉぉぉぉぉ!!!?」


 先輩! さすがにそれは反則!!!

 …まったく、体調戻ったらいきなりいつも通りですね、あなたは!

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