操縦士の条件
大井川先輩が虚ろな目をして机に突っ伏している。さながら死の荒野に横たわる水牛の骨かなんかみたいに。口なんか半開きで、今にもヨダレを垂らしそうな顔つきだ。
ボクはといえば、なすすべもなく先輩の机の脇にただ立ち尽くしていた。
ここは放課後の二年B組の教室。「さっちゃんの様子がおかしい」と内野先輩に呼び出されたボクは「いつもおかしいでしょ、あの人」と抵抗しつつも、半ば強制的に連行されて来ていた。
「ね、どうしようヨーちゃん」
内野先輩が小声でボクにそっと耳打ちする。
「ヨーちゃんって呼ぶな!」
獲物を見つけたゾンビさながらに、いきなりガバッと跳ね起きた大井川先輩が大声で叫んだ。かと思うと次の瞬間には、急激に空気の抜ける風船みたいな動きで再び机にへたり込む。アップダウン激しいな。見てるとちょっと面白いケド。
説得の糸口が掴めずに途方に暮れていると「私の方が早く陽輔と知り合ったのに~」とかいう微かな声が大井川先輩の口から漏れ聞こえてきた。
メンドくさい。この上なくメンドくさい。
さらにウンザリするのは、ボク達三人を遠巻きに取り囲む他の先輩達からの好奇の視線だ。
「きっとあのコだよ。噂の大井川さんの彼氏」とか「あれが大井川を手なづけたっていう一年らしいぜ」なんていう密やかな囁きが周囲から聞こえてくる。
顔もスタイルも運動も「中の上」、勉強は理系教科だけが辛うじて学年二十位以内に食い込むという極めて地味なこのボクが、今生まれて初めて注目の的になっている。しかしその理由が他ならぬ大井川先輩だなんて、あまりに悲し過ぎる現実だ。
「これって、間違いなく昼休みに先輩がからかい過ぎたせいですよ」
ボクは内野先輩の耳元にコソッと囁く。「だよね~」とか言いつつも、先輩の顔はあんまり困ったように見えない。
「何とかならないんですか?『慣れれば操縦簡単だ』って昼間言ってたじゃないですか」
「そんなコト言っても、私だって男の子のことでヤキモチ妬いたさっちゃんなんて初めてだもん」
違う。これはヤキモチとかじゃなくて、何と言うか「縄張り意識」みたいなものだ。先に水飲み場やエサ場を占有していた野生動物が、後から来た別の個体を排除しようと躍起になっている感じ。
まあ自分で何とかできるくらいなら、内野先輩もわざわざボクを引っ張って来ないか。
ボクはフゥッと溜め息をつき、しぶしぶ大井川先輩に話し掛けた。
「先輩」
机に突っ伏したままの大井川先輩が、首だけをクルリと90度回してボクの方を向き「何だ?」と弱々しく言葉を絞り出す。
「帰りましょう」
「やだ」
先輩が、今度は180度首を回してソッポを向きながらボクの提案を拒否した。
先輩に聞かせるため、わざと大きめの溜め息をもう一つつく。
「…そうですか、イヤなんですか」
ボクはクルリと振り向くと、今度は内野先輩に向かって話し掛けた。もちろんちょっと大きめの声で。
「仕方ないですね。残念ですが大井川先輩はまだ帰りたくないみたいなので、ボク達は先に帰りましょうか、内野先輩」
そう言い終わると同時にチラリと盗み見ると、大井川先輩の肩が一瞬ピクリと震えるのが確かに見えた。
よし。聞いてるし、効いてる。
「あ、よかったらモフモフバーガー寄って行きませんか。何か新しいフレーバーのポテトが出たらしいですよ」
内野先輩も察しのいい人のようで、ボクの目論みに気付いてすかさず調子を合わせる。
「あ、イイねえ~! じゃあ私、フィッシュバーガーセットにしよっと」
内野先輩の援護射撃の効果か、今度は大井川先輩の全身がプルプル震えだした。うん、もうひと押しだ。
「もし時間があったら、その後カラオケでも…」
ボクの言葉が、椅子を蹴倒すガタンッ、という音に遮られる。
「ゆ!る!さ~~~~~~ん!!!!!」
教室中に大井川先輩の雄叫びが響き渡る。
ボクが驚いたのは大井川先輩の大声ではなく、それに対する二年B組の先輩達の反応だった。これだけ突飛な先輩の行動を目の当たりにしても、誰一人、眉一つ動かしていない。よっぽど大井川先輩の奇行に耐性があるんだな、この人達。
「ふ、二人きりで、モフモフバーガーにカラオケだとお!?」
そう言えば両隣の教室からもゼンゼン野次馬が集まって来ないな。そんなコトをごく冷静に考える。
「だってしょうがないじゃないですか。先輩、帰らないって言うんですから」
「だからって、みかっちと二人で遊びに行くなんてズルいじゃないか!」
大井川先輩の目つきが少しすがるような色を帯び始めてきた。
「じゃあ先輩も一緒に行きますか?」
そう言われて、大井川先輩がうっ、と言葉に詰まる。多分バツが悪いんだろう。
「い、いや。私は…」
ほい、ダメ押し。
「じゃあ行きましょうか、内野先輩」
わざとらしく大井川先輩に背を向けたとたんに、ジャケットの裾をスゴい力で掴まれた。
「待て! 行く! 私も行く!」
大井川先輩が叫んだ瞬間、内野先輩がニコッと笑うのが目に入った。
大井川先輩が慌ててロッカーにカバンを取りに行った隙に、内野先輩がそっとボクの耳元に囁く。
「やっぱりキミ、さっちゃんの操縦上手いね」
なんか複雑な誉め言葉だ。
「なあ陽輔、モフモフバーガーの新フレーバーポテトって何味だ?」
ボクと内野先輩の間に割り込むように駆け寄ってきた大井川先輩が、キラキラした目で声を弾ませた。
「ああ、あれウソですよ」
「………ウソ?」
「はい。先輩の気を引くためのウソです」
大井川先輩の顔がみるみる悲嘆に暮れる。
「陽輔のウソツキ! 鬼、悪魔! エッチ、変態、特殊性癖!」
ちょっと。今の罵詈雑言、半分心当たりがありませんよ?