絶望の中で光を放つ一切れのケーキ
現実から目を背けて生きるのは愚かなことだと人は言う。
ボクも以前はそう思っていた。そう思って生きてきた。
だが今のボクはそれが必ずしも真実ではないことを知っている。この世には正視に耐えない現実というものが確かにあるのだ。大井川先輩の学力とか。
先輩の勉強に一時間も付き合わされれば、どんなに夢見がちな人でもそれに気づこうというものだ。それに気づかないのは、今ボクの向かいに座って日本史の宿題と取っ組んでいる先輩本人くらいのものだと思う。
思えば今日の夕方、学校の昇降口で先輩に捕まったのが悲劇の始まりだった。
「陽輔…」
いつになくしおらしい先輩の声に、不覚にも振り向いてしまった。
「日本史の夏川先生、ヒドイんだ」
目を潤ませながら先輩が訴える。だがちょっと素直には返事できない気分だ。
「先輩のボクに対する扱いとどっちがヒドイですか?」
「私がいつ陽輔にヒドイ扱いをした!?」
ああ。自覚は無いんだなあ、この人。まあ確かに、ボクに対して悪意はまったく無いのは分かる。ただ行動が極端に常識から逸脱してるだけで。
「すいません、冗談です。それで夏川先生がどうかしましたか」
先輩からの扱いを冗談で済ませられるようになるとは、ボクもずいぶん度量が大きくなったもんだ。いや、これって単に感覚が麻痺してきたというだけのコトか?
「先生、クラスで私にだけ宿題を出したんだ。補習代わりだって」
「それは、ヒドイのは夏川先生じゃなくて、先輩の日本史の成績だって認識でいいでしょうか?」
「陽輔もヒドイぞ!」
先輩が涙目になって叫ぶ。
「そりゃあ、この前の小テストはちょっと失敗したが…」
「何点だったんですか?」
「………四点…」
先輩がボソリと口にした言葉が、ボクの耳に届く前に風に溶けて霧散した。
「もう一度お願いします」
「……四点だ…」
「何点満点で?」
「このドSめ!」
何て謂われなき誹謗中傷だ。
「私にハズカシイことを言わせて興奮してるんだろ。そうなんだろ!?」
「興奮はしませんね。むしろ、どちらかといえば落ち込みそうな気がします」
「何で陽輔が落ち込む?」
先輩が突然上目遣いになった。
「…もしかして、私のコト心配してくれてるのか?」
「まあ、心配です」
どっちかっていうと、先輩の周りの人達が、ですけど。自分自身も含めて。
「じゃあ、じゃあ、宿題教えてくれ! うちの母さんも一度陽輔を連れてこいって言ってたし、私の家でやろう!」
「何で先輩のお母さんがボクのこと知ってるんです?」
「この間ハンバーガーを奢ってもらったコト話したんだ。『お礼しなきゃ』って言っていたぞ」
お礼なんていいから、ボクが先輩の餓えを心配しなくて済むよう、お小遣い増やしてあげてくれないだろうか。
そんな流れで先輩の部屋に強制連行されたボクは現在、空しくも涙ぐましい奮闘を続けるこの部屋の主を見守っているというわけだ。
さっきチラリと覗いた宿題の内容は、高校生どころか小学生でも答えられるようなレベルだったにも関わらず、先輩はウンウン唸りながら目の前の一枚の紙と悪戦苦闘している。
これはマズい。先輩の学力、ボクが想像していたよりずっと低そうだ。
テーブルに座るボクの前には、先輩のお母さんが持って来てくれたケーキと紅茶が置かれていた。一時間近く手付かずのため、紅茶はすっかり冷えきっている。
このケーキと紅茶と共に差し出された「うちの娘を何とかして」というお母さんの無言の願いを叶える自信がまったく失われつつある今、後ろめたくてとても口をつけられない。
「どうした陽輔、食べないのか?」
宿題から顔を上げてそうボクに尋ねる先輩は、とっくの昔に自分のお皿をキレイに空にしていた。まったく、人の気も知らないで…。
「そんなことより、宿題はできたんですか?」
ちょっと不機嫌になりながらそう先輩に聞き返した。
「けっこういい感じだぞ」
「ちょっと見せて下さい」
そう言って先輩の手元から宿題のプリントをつまみ上げる。
問 次の年に起きた歴史上の出来事を答えなさい。
1. 604年
ワールドカップ初開催
2. 1185年
麻雀公式ルール制定
3. 1333年
胃薬の新薬開発
「こ、これはいったい…」
思わず声が震える。
「…どこが発行した教科書にこんな新説が載ってるんです?」
「間違ってるか…?」
何でそんなに意外そうな顔できるんだ、この人。
「間違ってるも何も…」
まさかとは思ったが、ここまで壊滅的状況とは……。先輩、どうやってうちの学校合格したんだろう。
「…第一、年号を覚えるための語呂合わせとかあるでしょう。知らないんですか?」
「もちろん知っているぞ」
「じゃあ、まず604年は何でこういう答えになるんです?」
「『群れよ人々、オーロラビジョン』じゃないのか?」
ああ、観戦チケット手に入らなかった人達への心遣いなのか。
「…な、なら二問目は?」
「『いいハコ作ろう、親の役満』だろう」
「麻雀分かる人にしか通じない語呂合わせ作ってどうすんです!?」
しかも自信たっぷりに言い切ったよ、この人。
「もう聞かなくてもいい気もしますが、三問目はどういう…?」
「『胃酸散々、よく効く胃薬』だよな?」
「そっちのイサンじゃないですよ!!!」
ゴメンなさい、先輩のお母さん。とてもご期待には応えられそうもありません。ボクは申し訳なさでイッパイになりながら、自分のケーキの皿を先輩の前に押しやった。
「先輩、このケーキどうぞ」
「どうした、ケーキ嫌いなのか?」
「いえ、そんなことはないですが…」
「なら食べろ。おいしいぞ」
先輩はニコッと微笑むとフォークでケーキをひと切れ切り取り、ボクの口元に差し出した。ホントに距離感0の人だ。
「すまん、陽輔。地理ならもう少し得意なんだが…」
さすがに先輩といえど罪悪感らしきものを感じるのか、ボクにフォークを差し出したままちょっとショボンとする。
それにしても先輩、地理が得意だなんて寡聞にして初耳。
「…じゃあ行きますよ。地理の問題」
ボクは先輩の目をキッと見つめた。
「よし、受けて立つぞ」
先輩がニッと笑う。
「日本で隣接する都道府県が最も多いのはどこ?」
「海!」
「ブーッ! 不正解っっっっっ!!!!!!!」
ボクは先輩の手からフォークを奪い取ると、先輩の口にズボッとケーキごと突っ込んだ。