真夏の夜空に咲く花は
はあっ、という先輩の嘆息が予想よりずっと近かったせいで、思わずビクリと首を竦める。
「綺麗だな」
何の変哲もない、ごくシンプルな感想。けれどその言葉は、彼方の空を見上げる先輩自身の横顔にこそふさわしい形容だった。
その表情はただただ無心で、一途で、純粋だ。計算も、打算も、作為すらもない。
美しいものを目にして、一心に見とれる。
その純粋さこそが美しかった。
大井川里美という人が美しかった。
純粋さこそが、大井川里美という人の本質だと思い知らされた。
嬉しければ喜び、悲しければ泣き、納得いかなければ憤る。ごくごく当たり前のことだ。だが現代の社会は、その当たり前を容易には人々に許さない。
それでも大井川先輩はその現代社会を、純粋さを胸に抱いたままで堂々と横切っていく。あたかも無人の野を行くが如くに。
そこには「善」も「悪」もない。「正」と「誤」すらもない。
それが大井川先輩という人なのだ。
そういう生き方を選んだのではない。
そういう生き方しかできない。
それほど不器用で、それほど純粋な人。
そんなことを考えながら、ボクは色とりどりの花火が打ち上がる夜空ではなく、先輩の横顔にじっと視線を注いでいた。
打ち上げ始められた花火にひとしきり見とれると、大井川先輩が不意にこちらに向き直ってボクと目を合わせる。
「な、なんだ陽輔。あんまりジロジロ見るな……。いや、見てもいいが……、見てもいいんだが……」
大井川先輩、普段は自分に払う注意が足りないとプリプリしているわりに、こうしてじっと見つめられるのは苦手らしい。
「……そ、そうだ。食べないか? コレ」
ボクの注視を逸らそうと、先輩が膝の上の包みをほどき始めた。
「いただきたいです」
好奇心半分、空腹半分。
マンガなんかでは大概こういう場合、料理の凄まじい出来栄えに食べた男が泡を吹くという展開がお約束なんだけど。
まあ、それならそれで受けて立とうじゃないか。今年の春、先輩と知り合ってからの苦労を考えれば、料理の味など今さら取るに足らない問題としか思えない。
とはいえお祖父ちゃんに柔術を習い、お祖母ちゃんには着付けを仕込まれたという先輩のこと、もしかしたらお母さんには料理を教わったなんてことが実はあるのかも知れない。
先輩の膝の上に広げられた漆塗りの重箱には、和風のお惣菜がスペースを惜しむようにみっちりと並べられていた。お重と和風のお惣菜が、浴衣姿の先輩とのコラボでなんともいい雰囲気だ。
「味にはあまり自信がないんだがな」
先輩が割り箸と一緒に、ステンレスボトルから注いだ冷たい麦茶を渡してくれる。
へえ、珍しい。この人の謙遜って初めて聞いたかも。
「いただきます」
まずは定番の卵焼きに箸を伸ばすボク。ひょいと口に放り込んで噛み締めると、とてつもない甘さが口に広がった。
「どうだ?」
先輩が不安そうにボクの顔を覗き込む。
「美味しいです。美味しいんですけど……」
ボクは次に筑前煮を箸でつまんで口にした。
うむ、やっぱりそうだ。
「気に入らないか?」
ボクの煮え切らない表情に、先輩が小さな声で呟く。
「いえ、そうじゃなくて。先輩のお家って味付けが濃いめなんですね。」
ボクの言葉に先輩が目をパチクリさせる。
実際先輩の料理、ものすごく美味しい。ただボクの家の料理よりもかなり味付けが濃いんだ。
「陽輔はもっと薄味が好みか?」
「家で普段食べてるのがそうですからね。でも料理自体はすごく美味しいですよ。卵焼きの火加減もバッチリだし、筑前煮もよく味がしみてます」
先輩がさっきまでとは打って変わった満面の笑顔になる。
「うむ。なら陽輔の未来の妻として、薄味の料理の特訓をしなくてはな」
いつもならここで「ムダなことに労力を割かなくてイイです」なんてツッコミを入れるところだが、今日は別の言葉が口に出た。
「いつも思うんですけど、先輩はどうしてそんなにボクにこだわるんです?」
それを聞いた先輩が、なにを言っているんだコイツは、と言わんばかりに目を真ん丸にする。
「だって、陽輔以外に私を扱える男なんていないだろう」
いやおかしい。その理由、絶対おかしい。
「だから何度も言ってるじゃないですか。振舞いさえ普通にしてれば、先輩を好きになる男なんていくらもいますよ」
「私も何度も言っているぞ。これが私の普通の振舞いだし、陽輔以外の男に興味もない」
そうだった。周りの評価に合わせて振舞いを変えるような器用な生き方は、この人にはできないとさっき納得したばかりだったっけ。
「それにしたって、ボクなんかのどこがイイんですか」
先輩はニコッと微笑み、箸でつまんだキンピラをボクの口元に差し出す。どうしてだかその時ボクは、何の違和感も感じることなく、促されるまま赤ちゃんみたいに自然に口を開いた。
「覚えているか、陽輔。私達が初めて会った時のこと」
ボクの開いた口にキンピラを差し入れながら先輩が呟く。
「先輩が教室を間違えて、ボクのトコロに突撃してきたんですよね、確か」
モゴモゴとキンピラを噛み締めながら答える。
お、このキンピラすっごく美味しい。
「正確に言うと二日目だな」
「二日目ですか?」
そう言いながら、ボクは記憶の糸をたぐった。
「そうだ。二日続けて教室を間違えた私に、お前はあるものを渡したんだ」
ああ、思い出した。
ボクと先輩が初めて出会った次の日の朝、先輩はまたもや教室を間違えて一年B組に現れた。さすがに呆れたのはボクだけではなかったらしく、クスクスという忍び笑いと「また今日も来た、あの人」という囁きが教室中に広がった。
さしもの先輩も、その教室の空気でボクに声を掛ける前に自分の間違いを悟ったようで、ボクの机の脇に立ったままフリーズした。
先輩の置かれた状況を察したボクは、とっさに自分のカバンから小説の文庫本を取り出すと先輩に差し出した。
「はい先輩。これ、頼まれてた本です」
あたかも大井川先輩がもともとボクに用件があったかのように装った意図を、先輩もなんとか察したらしい。
「す、すまない」
それだけ言って、ひったくるようにボクの手から本を受け取ると、先輩はそのまま小走りに教室を出ていった。
そういえばあの時の本、返してもらってないなぁ。けっこうお気に入りの本だったのに。
「あの時、私を受け入れてくれる人間がもう一人現れたと思ったんだ」
分かる。最初の一人は、多分内野先輩だ。
「そして性懲りもなく、三日連続で教室を間違えたというワケですね」
「あ、あれは違うぞ!? 三日目は陽輔に会いたくてわざと行ったんだ!!!」
「まあ、この際そういうことにしておきましょう」
「本当だぞ! 本当にわざと行ったんだぞ!!!」
あーあ。せっかく艶っぽい浴衣姿なのに、こんな涙目でムキになっているところは彩音ちゃんより子供に見える。
「分かりました。信じます」
苦笑いを浮かべながらなだめると、口をへの字にした先輩がじっとボクの目を見つめ返してきた。
「……今日は、これを返そうと思って持って来たんだ」
そう言って、先輩が手提げから一冊の本を取り出す。
表紙についたこの見慣れたシミ。間違いない、ボクがあの時先輩に渡した本だ。
先輩が手にした本をそっとボクに差し出した。
「………………え?」
先輩のこの目、からかわれてムキになっているのかと思ったが、少し様子が違う。
「もし陽輔が、みかっちか彩音ちゃんを選ぶのなら、その方がいいと思ってな」
先輩が、目を潤ませたままそっと微笑んだ。本を持つ両手は、一瞥ではそれと分からないほどに細かく震えている。
そうか。先輩のこの目の色、これは「決意」か。
「だけど……」
そう言葉を継いだとたん、先輩の両目から突然涙がポロポロとこぼれ出す。
「……だけど、陽輔がみかっちを選んでも、彩音ちゃんを選んだとしても、私はずっと陽輔を好きでいるぞ」
先輩の唇がワナワナと震え、それに合わせるように声までもが震え始めた。
「いつまでも、いつまでも。私がこの世界からいなくなるその瞬間まで、お前のことを好きでいるぞ!!!」
その最後の言葉は、もはや叫びに近かった。
それは祝福か、あるいは呪いなのか。いずれにしてもその言葉は、ボクという存在の意味をその瞬間確かに変えた。
好意であれ憎悪であれ、尊敬であれ侮蔑であれ、人というものは他者から何らかの感情を向けられることなく自己を確立することはできない。
大井川先輩は今、自分がこの世に存在する限りにおいて、ボクという存在には何らかの意味があるということを担保してみせた。
それはまた、大井川先輩にとっても同じ意味を持っている。
ボクがこの世を去るその瞬間までは、きっと大井川里美という存在にも何らかの意味が与えられるのだろう。
死が二人を別つまで。
そんな言葉がボクの頭を過った。
「そんなに泣かないで下さい、先輩……」
ボクは先輩の頬を伝う涙を、震える指先でそっと拭う。
先輩の濡れた瞳が、夜空に咲く大輪の光の花を小さく映していた。
「お願いだから泣かないで。……その本、先輩にあげますから」




