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夏の夜、町の風景

 午後六時三十五分。

 駅の改札を出てすぐのところにある案内板の前で、ボクは大井川先輩が姿を現すのを待っていた。

 神様、若しくは悪魔の横槍よこやりかも知れないが、とにかく天で運命を左右する何者かは、あの日アミダくじの最後の一枠を選択した大井川先輩に「花火大会」という結果を割り振った。

 待ち合わせの時間は六時三十分。すでに五分ほど約束の時刻を過ぎている。大井川先輩、学校に遅刻するというのはままあることだが、遊びに行く予定の待ち合わせに遅れるというのは意外だ。

 この駅は大井川先輩の家からは最寄の駅で、ここで落ち合った後に、海沿いの埋め立て地にある花火大会会場まで徒歩で移動する予定だった。

 花火大会の開始は午後七時三十分予定で、数分間隔で駅に電車が到着するたびに改札から人の群れがどっと吐き出され、会場側の方向にワラワラと移動していく。

 ボクは三本目の電車から吐き出された人の群れを見送り終わると、取り出したスマホで大井川先輩の番号をコールした。

 やはり花火大会の晩だけあって、ボクの他にも数人だれかと待ち合わせをしているらしい人達の姿が目につく。彼女を待っているらしい男の人も、逆に彼氏の到着を待っている様子の浴衣姿の女の人もいた。そういった人達が待ち合わせ相手と連絡を取り合うため、辺りにはひっきりなしに携帯やスマホの着信音が鳴り響いている。

 ふと気づくと、その着信音の一つがカラコロという下駄の音とともに背後からボクに近付いてきた。

 振り向くと、そこにはスマホを手に小走りで駆け寄ってくる浴衣姿の大井川先輩が。

 紺地に白と淡い水色の花柄があしらわれた浴衣は、彩音ちゃんの可愛らしい浴衣とは違って大人っぽい雰囲気だ。いつもは背中まで届いている長い黒髪も、今日は頭の後ろでお団子にまとめられていた。しかもまとめられた髪は、なんとも本格的なことに鮮やかな赤のかんざしを使って留められている。

「遅くなってすまない、陽輔」という先輩の言葉に皮肉を返すのも忘れて、ボクは先輩の浴衣姿にぼーっと見とれた。

 ホントこの人、ビジュアル面だけに限れば文句のつけようがない。周りの男の人達も、チラチラと大井川先輩に視線を送っている。中にはボクを大井川先輩の彼氏と勘違いしたのか、なにやら敵意と怨嗟えんさの込もった視線をボクに向けてくる人までいた。

 あの。そんなにこのポジションがうらやましければ、喜んで交代しますよ、ボク。

「もったいないオバケが出ますよ、先輩」

 思わず心の声が漏れた。

「何のことだ?」

「先輩、そんなに綺麗きれいなんだから、もっと普通にしてればいいのに。そうすれば男なんて選り取り見取りですよ」

 先輩は小首をかしげながら、キョトンとボクの顔を見つめ返す。

「私はいつも普通だぞ? それに、陽輔以外の男になど興味はない」

 そうですか。あれがあなたの普通ですか。

「さあ、浴衣の着付けで少し遅れた。ちょっと急ごう」

 そう言って、大井川先輩がボクの手を引っ張って歩き始めた。

「先輩? 会場はそっちじゃ……」

 ちょうど到着した電車から吐き出された人達が向かうのとは正反対の方向へボクを引っ張る大井川先輩に、思わず抗議の声を上げる。

「しっ」

 先輩は人差し指を唇の前で立てて見せ、構わずボクをグイグイと引っ張った。

「穴場がある。陽輔も静かなところの方がいいだろう?」

 先輩は会場とはまったく逆方向、海から離れる内陸側へズンズン進んでいく。

「それにしても先輩、浴衣がよく似合いますね」

 道すがら、ボクはやっとその感想を口にすることができた。

「ふむ。ばあちゃんの遺言でな、女たるもの着物や浴衣を着れないようでは半人前だと随分ずいぶん仕込まれた。着付けも自分でできるぞ」

 へえ? 先輩が着物や浴衣の着付けを自分でできるなんて、ホオジロザメが曲芸するより意外ですよ。

「先輩のお家、意外と古式ゆかしいんですね」

「もっともうちのばあちゃん、遺言は山のようにするクセに一向に死ぬ気配はないんだがな。このままじゃ、そのうち『大井川家 女性心得百ヶ条』ができる」

 お祖母ばあ様、ご健勝のほど心よりおよろこび申し上げます。

 片側二車線づつの国道をまたぐ歩道橋に登り、その中程に差し掛かった辺りで先輩がふと足を止めた。

「陽輔、知っているか?」

「……? 何をです?」

 大井川先輩が、手すりに手をかけて車の行き交う眼下の国道を見下ろす。

「この国道が走っているところ、これがそのまま昔の海岸線だったんだ。つまり国道から海側は全部埋め立て地というわけだな」

「へえ。初めて知りましたよ、そんなこと」

 ボクは歩道橋の上から国道の両脇を交互に見渡した。

「なるほど。だからこの国道沿いって、釣具屋さんがたくさんあるんですね。それに内陸側、ここから急に丘みたいに高くなってる」

「そういうことだ。小さい頃、じいちゃんに教わった」

 先輩は歩道橋を渡りきり、内陸側の丘に続く斜面に作られた古い石段を上がっていく。

「先輩。ここって確か……」

「陽輔も知っているのか? この場所」

 振り返った先輩の顔が月明かりに照らされ、妖しい美しさを放つ。

「いや、小さい頃に何度か来ただけですけど」

 この石段を登った先にあるのは確か……。

 そのままわずかにくねる石段を登りきると、そこには丘の中腹ちゅうふくに作られた二十坪ほどの空き地と、そこにひっそりとたたずむ一メートル四方ほどのごく小さなやしろがあった。

「変わらないな、ここは」

 先輩がやしろに向かって軽く柏手かしわでを打ちながらつぶやく。ボクも思わずつられて先輩を真似た。

「ここはな、漁師達の海での安全を見守る神様なんだ。さっきも言った通り、昔はすぐそこまでが海だったからな」

 先輩が丘の下を横切る国道を指差す。

「けれど今では、海はずっと向こうでここからは見えない。神様もさぞかし困っていることだろう」

 先輩の言う通り現在の海は、この小高い丘の上からでも埋め立て地に建てられたマンションや大型の商業施設にさえぎられて見えない。その時ボクは浴衣姿の先輩が、まるで人間が文明の力で奪った何物かを惜しみ悲しむ神様の使いみたいに感じられた。

「けれど、今日の花火はよく見えるぞ。ここからはな」

 先輩がずいと指差すその先は、今日の花火大会の会場である海浜公園だ。

「あ、本当だ。ここから見ると真っ正面なんですね、海浜公園」

 しかもこの場所、ここだけ斜面の木立こだちが途切れている上に小高い丘の中腹ちゅうふく。さらにすぐ前方は幅の広い国道で、その向こうも背の高い建築物は何もなく見晴らしがいい。

「どうだ。絶好の穴場だろう?」

 大井川先輩が、どうだと言わんばかりに胸を張って見せる。

「本当ですね。見晴らしがいい割りに、他に誰もいないし」

「そこに座って見よう」

 先輩が指し示したのは、ベンチとも呼べない手作り感イッパイの腰掛けだった。どこかの採石場から切り出したままという感じの石二つを土台に、何かの再利用みたいな厚い木材を渡しただけのシンプルな造り。

 造りはまだいいとしても、このサイズはちょっと微妙だ。なんとか二人並んで座れる幅ではあるが、それも「可能な限り密着すれば」という条件が間違いなくつく。

「ほら陽輔。もうすぐ始まるぞ、花火」

 さっさと腰掛けた先輩が、自分のお尻の脇にわずかに残ったスペースを手でポンポンと叩いた。

 仕方なく先輩のご下命に従いながらも、ボクはあることに思い付いて再び腰を浮かせる。

「しまった。途中でコンビニに寄ればよかったですね。飲み物も何もないや」

 そうなのだ。てっきり会場で花火を見るつもりでいたボクは、会場の周りに出されているだろう屋台を当てにして、食べ物はおろか飲み物すら用意していなかった。

「いいから落ち着いて座れ」

 ボクとは対照的に落ち着き払った様子の先輩が、ボクのジーンズのポケットに指を引っ掛けて引き戻す。それから先輩は手にしていた小さな手提げをゴソゴソと探り、ランチチーフに包まれた箱とステンレスボトルを取り出した。

「大したものはないが、一応用意はしてきた」

 あまりに正直過ぎる反応だろうが、ボクは目を丸くして先輩の顔にマジマジと見入ってしまった。

「まさか先輩が作ったんですか?」

「まるで信じられないという顔だな」

 先輩がすっと目を細める。

「私だって料理くらいするぞ」

 だってしょうがないじゃないですか。普段あんな常識はずれな言動をする人が、今日は綺麗な浴衣姿で現れて、しかも自分で着付けができるなんて新情報を聞かせた上に自作の料理を持参するんですから。これでビックリするなという方が無理です。

 何と返事をしようかとマゴマゴしていると、不意にいくつかの大きな炸裂音とともに、先輩の顔の右半分が色とりどりの光に照らし出された。

「始まったぞ、陽輔!」


 その言葉に目を海の方に向けると、彼方の空にいくつもの光の花が咲き始めたところだった。

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