祭り囃子と彩音の気持ち
遅い。
男性の皆さん、「外出の時の女の支度って、何でこんなに遅いんだ?」と思った経験はありませんか? 友達や彼女や、なんなら母親や娘、姉妹、従姉妹のケースでも構いません。
棚橋総合研究所が先頃発表した調査結果によると、男性の実に九十八.四パーセントが外出時の女性の支度の時間にストレスを感じているとのことです。女性の皆様、なにとぞご協力のほどを。
「彩音ちゃん、支度できたぁ~?」
この夏休み中、彩音ちゃんの部屋として使われている客間のドアをノックしながらボクはそう室内に呼び掛けた。返ってきたのは「ちょっと待ってなさい! そんなんだから彼女の一人もできないのよ、アンタは!」という我が母親の声。
そうだった。彩音ちゃんの浴衣の着付け、母さんがやってるんだった。こりゃあ尚更遅いわけだ。
そこからさらに待たされること十五分、客間のドアが開く音とともに「陽ニィ、お待たせー」という彩音ちゃんの声がした。
ソファーに座った姿勢のまま振り向くと、そこには薄いピンクの地に白や赤の蝶が所々にあしらわれた浴衣を纏った彩音ちゃんの姿が。真っ赤な帯が、これまた浴衣の色をよく引き立てている。
「うん、よく似合ってるね。カワイイよ、彩音ちゃん」
そんなセリフが、お世辞じゃなく普通に出るほどの可愛いらしい浴衣姿だ。
「えへへ~、そうでしょ?」
そう言いながらクルリと回って笑う彩音ちゃんを見ると、やっぱりまだあどけない感じは抜けないなぁ、なんて感想が頭に浮かぶ。
「彩音ちゃん慣れない格好なんだから、あんたがちゃんと気を付けるのよ」
彩音ちゃんに続いて客間から出てきた母さんが、いつもの聞き慣れた説教口調でボクを注意した。
まあ、ボクら十代の男達にとっては、母親の説教や注意なんてものは一種の自然災害みたいなものだ。秋口の台風みたいに必ずやってきて、そして必ず通り過ぎて行く。
「うぇ~い」とヤル気のない返事をして玄関に向かいながら、ボクは彩音ちゃんにチョイチョイと手招きして見せた。
午後七時。西の空に僅かに残った薄明かりの中、ボクと彩音ちゃんは町内会の夏祭りが行われる市役所前の公園に向かう。
そう、彩音ちゃんがアミダで引き当てたイベントは「夏祭り」だ。
「こら。彩音ちゃんあぶない」
まるで野性動物の子供みたいに元気に跳ねながらボクの横をハシャイで歩く彩音ちゃんが危なっかしくて、ボクは思わずヒョイと彼女の手を握った。
瞬間、予想と違う感触に思わずドキッとする。
ボクの中に残っていた彩音ちゃんの手の感触の記憶は、ボクの掌にスッポリと収まるほど小さくて、柔らかくて、ほんのりと温かかった。なのに今彩音ちゃんの手は、指はスラリと長く伸び、薄い皮膚の手触りとヒンヤリとしたわずかな冷たさをボクの掌に伝えてくる。
この前彩音ちゃんに会ったのは小学校二年生の時だったか。
数年を経た掌の記憶のギャップは、ボクに彩音ちゃんが「少女」から「女性」への過渡期にあることを否応なく実感させた。
「えへへ~。こうやって陽ニィと手を繋ぐの久し振り」
彩音ちゃんがまったく照れるふうもなくキュッと手を握り返してくるのを感じて、何となく居心地の悪い照れ臭さみたいなものを感じたボクは、ほとんどそれと分からないほどに歩くスピードを速めた。
間遠に聞こえていた祭り囃子が次第に近付いてくるにつれ、人の数も次第に増えていく。
そして立ち並ぶ様々な屋台の灯りが目に入る場所まで来ると、彩音ちゃんのテンションが再び上昇した。
「陽ニィ! たこ焼き、たこ焼き!」
「あ、わたあめ食べたい!」
「ねえ! 陽ニィ、スーパーボール掬いやっていい?」
いやはや、スゴいバイタリティーだ。
彩音ちゃんは人混みの中を縫うようにあちこちと移動を繰り返し、その先々で歓声を上げている。ボクは屋台から屋台へと彩音ちゃんに引き摺られるようについていくのが精一杯で、両手はあっという間に彩音ちゃんの戦利品によってふさがっていった。
普段から元気一杯の彩音ちゃんが、今日はまた一段とギアを上げている。夏祭りというイベントではしゃぐのは分かるが、それにしても少し元気過ぎないか?
「あ、あそこにかき氷あるよ、陽ニィ!」
もう幾つめになるのかも分からない屋台に向かって走ろうとする彩音ちゃんを、ボクは思わず制止する。
「彩音ちゃん、少し飛ばし過ぎじゃない? お腹こわすよ?」
「大丈夫だよ、陽ニィ。せっかくのお祭りなんだし、思い切り楽しまなきゃ!」
そんなふうに満面の笑みで言われると、彩音ちゃんの楽しい気分に水を差すのも可哀想な気がして、こちらも思わず甘くなると言うものだ。
「分かった。でも、これが最後だよ」
ボクが提示した妥協案に、ふと彩音ちゃんが一瞬眉をひそめた気がした。もしかして「これが最後」っていうのがお気に召さなかったか?
だがそれもボクの錯覚だったのか、彩音ちゃんは「うん、分かった。じゃあ私ブルーハワイ~」と軽やかな足取りで屋台に駆けていく。
かき氷を手にしたボク達は、その後広場の片隅にひっそりと置かれたベンチに座って休憩をとった。彩音ちゃんはいざ知らず、ボクの方は彩音ちゃんを人混みの中で見失うまいというプレッシャーでかなりヘトヘトだ。
組まれたヤグラの上で打ち鳴らされる和太鼓と、スピーカーから流される盆踊りのリズムの中、たくさんの人々が広場を行き交っている。もともとのねっとりと絡み付くような夜気に加え、溢れるような混雑の人いきれのせいでやたらと蒸し暑い。
ボクは自分の溜め息まで熱い、とかどうでもいいことを考えながら、早くも溶け始めたかき氷をつついた。
「あ、大井川さんと内野さんだ」
隣に座る彩音ちゃんが唐突に人の群れの一角を指差す。「大井川」という単語が自分の本能に命じるまま、ボクはビクッと肩を竦めて顔を伏せた。
だがそんなボクの耳に入ってきたのはケラケラと笑う彩音ちゃんの声。
「嘘だよ~ん。陽ニィ、スッゴい慌てかた」
「彩音ちゃん、ダメだ。そのウソは人としてダメだ。兄ちゃんがペースメーカーしてるような人だったら命に関わってる」
胸を押さえて首を振るボクをじっと見つめながら、彩音ちゃんが不思議そうに首を捻る。
「なに陽ニィ、あの二人に会いたくないの?」
「二人というか、あの背の高い方のヒトに会いたくない……」
「だって、この前家に呼んでたじゃん」
「呼んでないよ」
それどころか、思い返せば大井川先輩と一緒に何かをしたほとんどのケースがボク自身の意思によるものじゃない。
「あれは勝手に二人が押し掛けて来ただけ」
「ふーん」
いかにも納得いっていなさそうな返事をしながら、彩音ちゃんが青くて甘い氷水になりつつあるかき氷を、カップに直接口をつけて啜った。
「じゃあ、陽ニィは大井川さんのコト本気で嫌ってるワケじゃないんだ」
ちょっと待って彩音ちゃん。今の話の流れでなぜそういう結論が導き出されるの?
ポカンとバカみたいに口を開けて自分の顔を見るボクに、彩音ちゃんが呆れたように目を細める。
「だってそうでしょ。女の子ってカンが鋭いんだよ? 口で何と言われようと、相手が本気で自分を嫌ってるかどうかはすぐに分かる。自分を本気で嫌ってる相手の家に押し掛けるなんて、そんなバカなコトする女の子なんていないよ」
ボクは自分より年下の、まだ小学生の女の子に聞かされたこの新説に目をパチクリさせた。
「まったく、男の人ってそういうとこニブいなぁ」
そう溜め息まじりに呟くと、彩音ちゃんはベンチからすくっと立ち上がる。
「せっかく伯母さんに浴衣着せてもらたったんだし、ちょっと踊ってくる」
そう言い残して、彩音ちゃんはヤグラを囲む輪の方へと走って行った。
ボクは町内会のオバさんたちの見よう見まねでぎこちなく踊る彩音ちゃんの姿を見つめながら、さっき彼女に言われた言葉が頭の中でグルグル回るのを持て余していた。




