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彩音、襲来

 暑い。

 とにかく暑い。

 今朝なんか駐輪場から昇降口にたどり着くまでの間に、くつの裏のゴムが溶けてアスファルトに貼り付いているんじゃないかと何度も振り返って確認したくらいだ。

 こうまで殺人的な気温に見舞われると、今日が一学期の終業式であることを神に感謝したくなる。少なくとも明日からの約四十日間は、炎天下を学校まで往復するという苦行から開放されるワケだ。

 そしてもう一つ、夏休みという魅惑の時間がボクにもたらす最大の恩恵。それは「大井川先輩からの解放」だった。

 これがボクにとってどれだけ大きな意味を持つかは、今さら説明するまでもないだろう。ゆえに下校間際(まぎわ)、いつにも増して執拗しつような大井川先輩の追跡を振り切れなかったボクが、血涙けつるいむせぶほど無念だったことはご賢察けんさつ頂きたい。

「あ、危なく逃がすトコロだった」

 全力疾走したせいで呼吸を乱しながらボクの腕をつかむ大井川先輩の目が、ゲートの前で開園時間を待つテーマパーク来園者みたいにギラついていた。

「お、思わずさっちゃんにつられちゃった……」

 ボクの反対の腕にぶらさがっているのは、やはりゴール直後のマラソンランナーみたいな有り様の内野先輩。どうもお疲れ様です。

「お二人とも、本日はいかなるご用向きで?」

「言わなければ分からないか?」

 大井川先輩がギロリとボクをめつけながら呼吸を整える。

「明日から夏休みだな?」

「そうですね」

「陽輔は夏休みの間は学校に来ないな?」

「先輩だって来ませんよね」

「つまり、私は夏休みの間、陽輔に会えないということだな?」

 くっ。先輩、そこに気づいちゃったかぁ~。


「そんっっっ、なのっっっ、むりっっっっっ!!!!!」

 大井川先輩、必死すぎ!!!

「わたっっっ、しもっっっ、むりっっっっっ!!!!!」

 内野先輩まで調子を合わせない! ちょっとキャラ変わってるし!!!


「そんなこと言ったって、こればかりはどうしようもないじゃないですか!」

 ここが踏ん張りどころだ。ここさえしのげば、明日から約四十日間に及ぶ平穏な日々がボクを待っている。

「どうしようもないことを何とかするのが人生だろう!」

「じゃあ、自分の赤点の山を先に何とかして下さい!」

 大井川先輩の、もっともらしい割りに自分をかえりみない発言を一蹴いっしゅうするボクの腕を、内野先輩がクイクイと控えめに引っ張った。

「でも、私も夏休みの間ヨーちゃんとずっと会えないのさみしいよ……」

 ああ、そんなすがるようなカワイイ目で見ないで下さい、内野先輩。

「私だって、夏休みの間陽輔とずっと会えないのさみしいぞ……」

 ああ、そんな獲物を見るひょうのような目で見ないで下さい、大井川先輩。

「あ! じゃあさ……」

 突如、内野先輩が何か思い付いたようにパンッと両手を打ち合わせた。

「これからみんなで夏休みの予定立てない? 海とか夏祭りとか、花火大会とか!」

「何で『みんな』で行く前提なんだ?」

 内野先輩の発案に大井川先輩が頬をふくらませる。

「言ったでしょ? まだヨーちゃんはさっちゃんのモノって決まってないって!」

 内野先輩。だから「まだ」はりませんって。

「ほう、みかっち。私と正面きって張り合おうとは自信満々だな。いいだろう。ならば夏休みのイベントで、陽輔がどちらのものかハッキリ勝負をつけようか」

「望むトコロだよ、さっちゃん」

 不敵に笑いながら対峙する二人の先輩。ていうか、この件に関してボクの意思はどのように反映されますでしょうか?




「どうして話す場所がボクの家なんです?」

 くだけムダと知りつつ、それでもかずにいられない。はかない抵抗だ。

「「行ってみたいから!」」

 やっぱりムダだった。さっきまで言い争っていたとは思えないほど、二人の先輩の息はピッタリ。

「明日から夏休みだし、少しくらい遅くなっても大丈夫だしね」

「ふむ。やはり未来の妻としては、夫となる男性の現在の暮らしぶりは知っておかなければならないしな」

 大井川先輩も内野先輩も、銘々(めいめい)お好きなコトを言っていらっしゃる。

「そう言えば、ヨーちゃんって兄弟はいるの?」

 左側を歩く内野先輩が、ボクの腕にそっと手をかけながらボクにたずねた。

「いえ。一人っ子なんですよ、ボク」

 なので、年が近い女の子とこんなに密着することに馴れてないのです、内野先輩。

「だから私みたいなステキなお姉様に耐性がないんだな」

 なにをウンウン的外れにうなづいてるんですか、大井川先輩。

 そんなチグハグなやり取りをしている間に、ボクの住むボロいマンションが目に入ってくる。あーあ、こんな流れと分かってれば部屋を掃除しておくんだった。

 ボクは先に立たない後悔に溜め息をつきながら、マンションの二階にある自分の家のドアに手をかけた。

「ココが陽輔の家か?」

「ヨーちゃんち、マンションなんだ」

 後ろに立つ二人は、何が嬉しいのやら新規オープンのアトラクションを体験するみたいに目を輝かせている。

「ただいま~」

 ドアを開けて玄関に入ると、奥にある居間の方からパタパタという足音。

 おかしい。いつもなら母さんの「おかえり~」というダルそうな返事が聞こえるだけで、出迎えに来る足音がするなんてあり得ないんだが。しかも近付いてくる足音、この家ではちょっと聞き慣れない軽快さだ。


「おっかえり~、陽ニィ!」


 弾むような声と共に玄関に姿を現したのは、にこやかに微笑むツインテールの可愛らしい少女。白いタンクトップの裾と、水色の際どい丈のミニスカートがヒラリとおどる。

 ……?

 ボクはこの予想外の事態に、靴を脱ぐ姿勢のままタップリ四秒ほどフリーズした。

 いったい誰だ、この女の子?

 だがフリーズしているのはボクだけではなかった。ボクの家の玄関に現れたこの謎の美少女も、最初にボクに向けた笑顔を強張こわばらせたままフリーズしている。その視線は靴を脱ごうとかがんだ姿勢のボクの頭上を通過して、まっすぐ背後に向かっていた。

 ゆっくり振り返って少女の視線を追うと、そこにはやはり彫像のようにフリーズした大井川先輩と内野先輩が。

「陽輔。お前、一人っ子なんだよな?」

 最初に沈黙を破ったのは大井川先輩だった。

「ええ、そのハズです。親父に隠し子とかいなければ」

「だけどこの子、今お前のコト『陽ニィ』って……」

 その時になってやっと記憶の欠片かけらがコロリと頭の中で音を立てた。

 そうだった。ボクのことを『陽ニィ』と呼ぶこの世でただ一人の人物と言えば……。

「……もしかして、きみ彩音あやねちゃん?」

「なに陽ニィ、今まで気付かなかったの?」

 ボクの中の最後の記憶とはまったく印象の変わった少女がニッコリと笑う。

「ところで陽ニィ、後ろのお二人は?」

「ああ、学校の先輩達。大井川先輩と内野先輩」

 ちょっと嫌な予感に襲われながらゴニョゴニョと二人を紹介した。

 なんてコトだ。なんで先輩達が家に来る今日を見計らったみたいに彩音ちゃんが現れるんだ。

「なるほど……」

 コホン、という咳払いにツインテがピョコンと揺れた。そしてそれと分からないほどわずかに目を細めた彩音ちゃんが口を開く。

「初めまして。陽ニィの婚約者の廣沢彩音ひろさわあやねと申します。いつも未来の夫がお世話になってます♪」

「はぁ!!!?」

「えぇ!!!?」


 ああ。予想通りやらかしたよ、彩音ちゃん。

 もうお家に帰りたい、ボク。

 ……残念なことにボクの家ココだけど。グスン。


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