女神の微笑みと悪魔の慟哭
思ってもいなかった成り行きで、大井川先輩と内野先輩に付き合わされることになったボク。
自慢じゃないがこの棚橋陽輔、女の子と遊んだなんて経験は小四の時以来絶えてない。もちろん大井川先輩のケースは別にして。あれはどちらかと言えば猛獣の飼育に近いのでカウントしない。したくない。
従って高校生になった今「女の子と遊ぶ」と言われても、具体的に何をどうすればいいのかサッパリ分からないのだ。
「あ……!」
内野先輩が突然ボクの肩ごしに視線をずらした。振り返って内野先輩の視線を追うと、その先には大きなボウリングピンのオブジェが。
「ボウリングかぁ。しばらくやってないなぁ」
内野先輩の呟きにちょっとホッとする。これは行き先とか色々悩まないで済みそうな流れだ。
「二ゲームくらいなら付き合う時間ありますよ」
この後のプランがボウリングに決定するよう、さりげなく誘導するボク。
「ふむ。陽輔、ボウリング得意なのか?」
探るような口調でそう質問する大井川先輩の口元に、どこか引っ掛かかる微笑が浮かんだ。
「得意ってわけじゃないですけど、前はよく父さんに連れられて行きましたよ」
「なるほど……」
大井川先輩の微笑に隠された目論みに気づいたのは、受付を済ませてゲームを開始する直前のことだった。
「ところで……」
ハウスボールを選んでレーンに戻って来た大井川先輩が唐突に口を開く。
「……全員経験者なら、ちょっとした賭けでゲームに興を添えないか?」
「添えたくないですね」
最初から大井川先輩の様子に警戒心を抱いていたボクが即答した。
「ほほう!!!」
フロア中に響き渡る大井川先輩の声に、一番端のレーンの客までが何事かとばかりにこちらに目を向ける。
「いっぱしの男が、か弱い女子のささやかな挑戦に背を向けると!? 敗北の予感に足が震えると!!!?」
ひ、卑怯な! 周囲の目を集めて、ボクが引けない状況に追い込むとは……。だいたい挑戦を突きつけてるのは「か弱く」ない方の女子じゃないですか。
「……分かりました。で、賭けの内容は?」
まんまと大井川先輩のペースに乗せられた屈辱で声がちょっと震えた。
見てるがいい、このノーテンキ娘め。その高慢ちきな鼻、すぐにへし折ってやる。
「『一番スコアの高かった者が、残り二人に一つづつ好きなことを命令できる』でどうだ」
「自分が敗者になる可能性なんか、これっぽっちも考慮してない言いようですね」
「当たり前だ。なぜ私が他人の虫歯の治療をしなければならない?」
「もうイイです。今の一言で、絶対あなたにだけは負けちゃいけないって決意が固まりました」
表面的には深刻なわりに、実のところまったく内容薄弱なそんなやりとりの末にボク達のゲームはスタートした。
予想通りというか見たままというか、内野先輩のボウリングはその性格同様、ホンワリポワポワしていた。ピンに向うボールまでが眠そうにゆっくりと転がっていく。
スペアを取った時の歓声と、ガターにボールが落ちた時の「やだ~」という可愛らしい声は、男から見ればまさに女の子とボウリングをプレイする醍醐味。
女の子がミスをした時「今のはもう少しこう腕をね…」なんて体を密着させながらアドバイスして、恥じらいと僅かな尊敬がこもった瞳を向けられるなんてシチュエーションは、男なら誰でも夢見るんじゃないか? 世の男性諸君、同意求む。
ところがだ、ここにそんな男のロマンなど歯牙にもかけない女子高生が一人。名を大井川里美と言う。
彼女が投じるボールは大砲の弾のごとく、ピンを破壊せんがばかりの勢いでレーンを飛んでいく。
「飛んでいく」というのは比喩ではない。大井川先輩の投げるボール、絶対レーンの半ばほどまでは宙に浮いてるハズだ。ボウリングのピンというものがどんな材質でできているものやらとんと知識がないが、大井川先輩の放つボールの威力がいずれピンを粉々に砕くのは時間の問題と思われた。
しかしながら大井川先輩、殺人的な球威に反して繊細さは今一つで、スコアの延びが球速に比例しなかったのがもっけの幸いだった。
そして現在、内野先輩は二ゲームを終了して八十九点、九十六点の計百八十五点。大井川先輩が百十二点、百七点の二百十九点という結果となっている。
ボクの一ゲーム目のスコアは百九点。そして二ゲーム目の第九フレームまでで百三点、計二百十二点というのが現状だ。つまりこの時点での大井川先輩との差、七点。最終フレームで八点以上取れるかどうかがボクの命運を分ける。
この時点で既に内野先輩の最下位は決定している。それはいい。トップが大井川先輩であれボクであれ、内野先輩に対して無茶な要求がなされることはまずないだろう。
もし自分がトップを取ったら「ボクと付き合って下さい!」って言ってみようかとか、想像してみなかったわけじゃない。だけど、想像してみるのと実際に行動するのでは、天体望遠鏡を覗くのとロケットに乗り込むくらい違う。
問題なのは、大井川先輩がトップを取った時のボクに対する要求だ。あの人「何を言われても絶対服従の下僕になれ」とか普通に言い出しかねない。いや、いかにも言いそうだ。……ていうか、絶対言うな、うん。
深呼吸一つ、震える脚を落ち着けて最終フレーム一投目。
しまった。ボールが手を離れた瞬間にミスだと分かる。
ボールは狙ったラインよりかなり右に膨らんで、六、九、十ピンの三本を辛うじて倒しただけでピットに消えた。
「フハハハ! どうした陽輔。随分プレッシャーが掛かってるみたいじゃないか?」
アゴをしゃくりながらそう言い放つ大井川先輩が、まるで昭和の女の子向けアニメの悪役みたいに見える。あの真っ青な顔色の、意地の悪い美人ね。
ボールリターンから自分のボールを取り、重い足取りでレーンに戻ったボクは、思わず目を瞑って大きく息を吐き出した。
普通に考えて、一投で五ピンを倒すことなんか実に容易い。だがあの大井川先輩の悪魔の如きプレッシャーの下では、普段の常識がまったく実現不可能な奇跡に思えてくる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
目を瞑って孤独な思索に耽っていたボクの耳を、可愛らしい澄んだ声が不意にくすぐった。驚いて声のした方を見やると、隣のレーンでお父さんとプレイしていた女の子が心配そうな顔でボクを見上げている。
「大丈夫? お兄ちゃん、病気?」
ああ、なんと穢れなき澄んだ瞳。その目はただただ一途にボクの様子を心配してくれている目だった。
その瞳に少し落ち着きを取り戻したボクは、苦労しながらも何とか女の子に笑顔を返す。
「大丈夫。お兄ちゃん、病気じゃないよ。ただ、ピンをあと五本倒せないと、病気よりヒドイことになりそうだけど」
女の子に心配をかけまいとしたつもりが、セリフの後半は我知らずやたらと陰鬱な響きになった。
だがそのボクの言葉を聞いた女の子は、安心したようにボクのジーンズを摘まみながらニコッと笑う。
「なあんだ。五本くらいなら、きょうかが倒し方教えてあげる」
女の子はそう言い切ると、ボクの足許にしゃがみ込んでクイクイとジーンズの裾を引っ張った。つられてボクも女の子の隣にしゃがむ。
「はい、ここにボール置いて?」
女の子に言われるまま、ボクはボールをフロアにそっと置いた。
「じゃあね、あの真ん中の矢印のちょっと左側ねらって、ゆっくり両手でボール転がすんだよ」
女の子が中央のスパットを指差しながら落ち着いた声でボクを導く。
ああ。もし本当に天使がいるとしたら、きっとこの子みたいな姿と声をしてるんだろうなあ。
「お、おい、陽輔。まさかお前本当に……」
背後から女子高生の姿をした悪魔の動揺したような声がする。
「何か問題が? ファールラインは越えてませんが……」
すっかり落ち着きを取り戻したボクは、低く厳かにそう宣言した。
確かに普段ならこんな投げ方、とてもじゃないが恥ずかしくてできない。だがこの小さな少女が横に寄り添っていてくれる状況ならば、幼子と戯れるという構図がボクに免罪符を与えてくれる。
「覚悟はいいですか? 大井川先輩」
ボクは静かにそう口にすると、そっと両手でボールをレーンに送り出した。
ゆっくりと転がるボールは中央のスパットを僅かにかすめ、真っ直ぐにヘッドピンに向かっていく。
やがてピンデッキに到達したボールはゆっくりヘッドピンをなぎ倒すと、小刻みに方向を変えながらピンの間を縫うように進んでいった。
ボールがピットに消え、最後まで躊躇うように震えていた七ピンが辛うじて直立を保った瞬間にボクのスコアが確定した。二ゲーム合計、二百二十一点。
「いよっしゃあぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!!!」
勝利の雄叫びと共に、思わず女の子を頭上高く抱え上げる。
まさに天使。いや、勝利の女神!
「そ、そんなぁ~」
かたや女子高生の姿をした悪魔が、確信した勝利を挫かれて落胆の溜め息を漏らした。
だがそこは大井川先輩、転んでもタダじゃ起きないらしい。
「……くっ。負けた以上仕方ない。この上は陽輔の妻として一生傍に……」
「そんな先輩の思惑通りな要求、ボクがすると思いますか?」
皆まで言わせてなるものか。ここは散々いたぶられたお礼に、少しお灸を据えてやる。
「賭けの内容は『一番スコアの高かった者が、残り二人に一つづつ好きなことを命令できる』でしたね?」
さっきまでの大井川先輩のお株を奪う意地の悪い笑みを浮かべて、ボクは賭けの内容を確認する。
「……そ、そうだっけ?」
大井川先輩が目を泳がせながらシラを切った。
「往生際が悪いですね。自分で言い出したコトですよ?」
「わ、分かった。どうすればイイ?」
有無を言わせぬボクの圧力に観念したのか、大井川先輩がビクビクしながらボクの顔を盗み見る。
「そういうわけで、ボクの大井川先輩への命令は『今後ボクの二十メートル以内に決して立ち入らないこと』……」
「よ、よーすけ……?」
ボクの言葉に、大井川先輩が声を震わせながら目を潤ませた。
まったくこの人、さっきみたいに魔女みたいな立ち居振舞いをしたかと思えば、今度はこんな捨てられた仔犬みたいな顔をするんだから、まったくズルい。
「……と、言いたいところですが……」
いや、実際ホントに言いたいところだけど。
ボクは呆気にとられたような表情で自分達のやり取りを見つめる「勝利の女神」の頭にポンと手を乗せる。
「……この子にアイスクリーム、ボクと内野先輩には何か飲み物を奢るってコトで手を打ちましょうか。どうです?」
その言葉を聞いた大井川先輩の顔に、にわかにパアッと笑顔が広がった。
「わ、分かった! よし。それでいい!!」
そう言うが早いか、大井川先輩は女の子の手をハッシと取ると、受付カウンター脇のアイスクリーム自販機目指して一緒に走り始める。
「よし、きょうか、何味がいい!? 何でもイイぞ!」
「えっとね、きょうか、チョコチップがいい!」
そんなやり取りが遠ざかる中、変な話だがボクはちょっと大井川先輩に感心していた。
「あの人、一度聞いただけであの子の名前覚えてる。ああ見えて子供好きなんだよなぁ……」
コンビニでのバイト時のエピソードや、電車でのトラブルの時の振る舞いを考えても、大井川先輩が子供好きなのは間違いなさそうだ。
「ヨーちゃん、さっちゃんのコトよく見てるよね」
ボクの独り言が耳に入ったのか、内野先輩がそう感心したように言う。
「……やっぱりさっちゃんには敵わないかなぁ」
ポソリとトーンを落とした先輩の言葉の後半は、ボールがピンを倒す甲高い音にかき消されてボクの耳には届かなかった。




