戦乙女(いくさおとめ)、舞う
「納得いきません」
ボクは隣に座って鼻歌を口ずさむ大井川先輩をチロリと横目に睨んだ。
平日午後四時前の上り電車の車内は、乗客がポツポツと所々に見える程度で実に平和そのものだが、先輩に無理矢理お供を命じられたボクの心情は平和と言うには程遠かった。
「何でボクが先輩の美術の課題を家まで運搬しなきゃならないんです?」
自分の膝の上の手提げ袋に目を落としながら恨みがましい気持ちで毒づく。
この手提げ袋に収められた先輩の作品、見た目が変に前衛的なばかりでなくやたらと重い。作品のテーマは「今自分の目に映る物」だそうだが、このダリがウィスキーのボトルを五本くらい空にしたイキオイで作ったような作品を見ていると、先輩の目に何が映っているのやら本気で心配になる。
「すまない、陽輔。材質にこだわっていたら、当初の予定よりずっと重くなってしまったんだ。自転車で運ぶと、揺れで壊れそうだしな」
「材質って、コレ何で出来てるんですか?」
「表面は木と紙だが、中に紙粘土が入っている」
どうみてもコレ、紙粘土を型の土台にしたようには見えない形状だ。
「その見えない部分へのこだわりは、いったいどういう…?」
「紙粘土の芯の位置を工夫して、平らな所に置いた時微妙に揺らぐようにしたんだ」
「…それはまたムダなこだわりですね」
「凡人には分からないところだな」
反論する気も失せた。まあこの世の中には先輩にしか理解できないコトがいくらもありますからね。
学校から先輩の家までは駅二つ。もうすぐ一つ目の駅に着く頃だ。
ボクと先輩の向かい側、次の駅で扉が開く方の七人掛けの座席の端には、二、三歳くらいの男の子を膝に抱っこしたお母さんが座っている。その前には生まれたばかりの赤ちゃんが気持ち良さそうにスヤスヤ眠るベビーカー。
ホームに入るため電車が減速を始めると、座席の中央あたりに座っていた若い男が席を立った。そして扉に向かう途中、ベビーカーのところに差し掛かったあたりで不機嫌そうに舌打ちする。
「チッ! じゃまクセえ…」
ボクの耳にその言葉が届いた次の瞬間、その男がごく軽くだが、赤ちゃんの眠るベビーカーを足で蹴った。驚いた赤ちゃんは火がついたように泣き出し、お母さんが怯えた表情でベビーカーを引き寄せる。
「ちょっと!」
怒りというよりは、どちらかと言うとビックリしたせいで思わず席から立ち上がった。ていうか、自分で気付かないうちに立っちゃった。
「…あ?」
ギロリとこちらを振り返った男が、さっきの五倍くらい不機嫌そうな声でボクを威嚇しながらこちらにゆっくりと近付いて来る。
「あ…、いやその………」
あらためて見ると、この人ものスゴくヤバい。短く立ち上げた髪は今時ちょっと見かけないってくらい見事な金髪だし、鼻にはピアス、半袖の黒いポロシャツから覗く腕には何やら羽の生えたライオンみたいな柄のタトゥーが彫られている。
「何か言ったか、このガキ」
正直に言います。もうチビリそうです。
ケンカなんか小二の時以来したことのないこのボクが、見るからにケンカ馴れしてそうなヤンキー相手に敵うワケがない。二秒で頭からバリバリ食べられちゃいそう。
だけど…。
確かにボクは無謀なコトをしているかも知れないが、間違ったコトをしているつもりは毛頭ない。ただ、不本意ながら大井川先輩を危険なトラブルに巻き込んだことは確かだった。
幸い、電車は次の駅のホームまであと少しだ。せめて停車してドアが開くまで時間稼ぎができれば、先輩もあの母子も電車を降りて安全な所へ逃げられる。
「…赤ちゃんが乗ったベビーカーを蹴るなんて、男がすることじゃないんじゃないですか?」
緊張でカラカラの舌をフル回転させ、震える声で何とかそれだけの言葉を絞り出す。
次の瞬間、顔の左側に鈍い衝撃を感じた。一秒の半分遅れて殴られたんだということに気付く。
「震えながら何ゴニョゴニョ言ってんだ? コラ」
口の中にジワジワと鉄の味が広がっていく。歯は折れていないようだが、口の中を切って出血しているのは間違いない。
自分でも驚いたことに、ボクは一発殴られたことで逆に少し冷静さを取り戻していた。そのせいで、電車がホームに進入し、間もなく停車することを窓越しに確認する余裕があった。
しめた。これで少なくとも先輩とあの母子は逃げられる。
「ナマイキにオンナ連れて…」
窓の外に気を取られていたボクは、その言葉にハッと男の方に視線を戻す。いつの間にか体を斜に構えた男が、右足を後ろに振りかぶっていた。
「イキがってんじゃねえ、ボケ!!」
マズイ、蹴りが飛んで来る。
左前方からの攻撃を予測していたボクは、体の左側に力を込めて来るべき衝撃に備えた。だが男の蹴りがボクに向かって放たれた瞬間、自分の身体が左後方から何か柔らかい物にそっと、だがしっかりと押されるのを感じる。
一瞬、フワリとシャンプーの香りがした。 …ような気がした。
まったく予想もしていなかった方向から身体を押されたボクは、踏ん張り切れずに一、二歩前にたたらを踏む。
「お!? …っと!」
次の瞬間、危うく踏み止まったボクの左側に、何かがものすごい音を立てて倒れ込んできた。
ドッッッターーーン!
あまりの大音響にビクッと体ごとそちらを向き直ると、なぜかボクの足元の床に鼻ピアスの金髪男が仰向けに倒れている。
「テ、メ…」
ピクピク頬を引き攣らせた男は、真ん丸に見開いた目を、なぜかボクではなくあらぬ方向へ向けていた。
「………おい、キサマ」
まるで地の底から響いて来るがごとき低い声。この声には聞き覚えがある。あまり思い出したくないけれど。
…そう。これは、大井川先輩がボクに理不尽な要求をする時のあの声色だ。
「女子供相手に乱暴を働いたばかりか、私の陽輔にまで手を上げるとは…」
先輩か? さっきボクを押し退けたのも、今この男に何かして転ばせたのも先輩なのか?
「…今後三ヶ月間、流動食だけで過ごすことになるぞ」
先輩、大丈夫ですよ。殴られたのはボクで、「先輩の陽輔」さんとやらは無事ですから。
目の前の退っ引きならない現実が受け入れられずに、ボクは心の中でそんな冗談を呟いた。たった今起きたコトについて、ボクは何一つ、まったく理解できていないが、先輩が見るからに危険なこの男を面と向かって挑発したことだけは紛れもない事実だ。
男が顔中にニヤニヤ笑いを浮かべながらゆっくりと立ち上がる。
…た、大変だ。
「先輩、電車が止まったらすぐに降りて! 逃げて下さい!」
ボクは男に後ろから組み付きながら必死に叫んだ。
「ウゼェんだ、テメエ!!!」
男は左腕一本でボクを軽々と振り払う。いとも簡単に弾き飛ばされたボクは、よろけて床に尻もちをついた。
「陽輔!」
先輩の心配そうな声が車内に響き渡る。
「私のことは心配するな、離れてろ!」
ボクに向かってそう叫ぶ先輩に、金髪男がいかにも無造作に歩き寄った。
「ネーチャン、オレにあんなフザケたマネしてくれたんだ。それなりの覚悟はあんだよな?」
あんなマネ? あんなマネってどんなマネ? 見てなかった。教えて!
男がニイッと笑うと、タバコのヤニで汚れた歯と不健康そうな色の歯茎が剥き出しになる。
「ふん。お前こそ腕のいい外科医の心当たりはあるのか?」
先輩はそう吐き捨てるように言って、男に左半身を向けるように右足を引いた。
その時だ。大井川先輩のことをよく知っているという認識が、もしかしたらとんだ間違いなんじゃないかとボクが思ったのは。
先輩は身体の向きを変えると同時に全身の力を抜き、両膝を軽く曲げた。左手は掌を男に向け、鳩尾より僅かに高い位置で構えている。右手は腰の高さだ。
これは何だ? …まさか空手? 先輩、空手か何か習っているのか?
男に向かって構えを取る先輩は、ボクが見てきた大井川先輩とはまるで別人だった。素人のボクが見ても分かるくらい、先輩の姿は自然で堂に入っている。例えるならまるで、…そう、ネコ科の猛獣。ただし、ライオンやトラみたいな大型のヤツじゃない。
…豹だ。
突然イメージが頭に閃いた。まるで今の先輩、木の上に潜んで獲物を狙う豹みたいにしなやかで凶暴な印象を受ける。…いや、凶暴なのはいつもと同じか。
金髪男もボクと同じ印象を受けたのか、先輩が構えを取ったのを見て歩みを止めた。
「何かやってるらしいが…」
電車がホームに停車した。進行方向左側のドアが一斉に開く。
「…そんなもんが街のケンカで役に立つかよ」
男が準備体操のように首を回すと、ゴキゴキと耳障りな音がする。
さっきの母子はおろか、同じ車輌に乗り合わせた数人の乗客もまるで魅入られたように二人を見つめていた。誰も降りないし、誰も乗ってこない。ボク自身にしてからが、駅員に助けを求めるという単純な方法をすっかり忘れるほど目の前の光景に釘付けになっていた。
金髪男はボクが見上げるような身長で、おそらく百九十センチ近い。剥き出しになった腕はムキムキした筋肉にくるまれているし、腿の太さときたら先輩のウエストとどっこいなんじゃないかというくらい。
一方の先輩はと言えば、身長はボクよりさらに低くて百六十五あるかないかだ。全身のシルエットだって、今すぐファッション誌のモデルができそう。
そんな二人が向かい合ってるなんて、そんな絵面は格闘ゲームでしか見たことがない。
突然何の前触れもなく、男が左腕を伸ばして先輩を掴もうとした。それを見たボクは思わずひゅっと息を飲む。
次の瞬間、先輩の姿が消えた。違う、男の身体の陰に隠れたんだ。
男の身体が急にコマみたいにグルリと回転し、床に叩きつけられた。中学の頃、体育の授業で柔道をした時に聞いたようなビッターン! というものスゴイ音がする。
「うぐっ!!」
背中をモロに床に打ち付けた金髪男がたまらず呻いた。先輩の方は男の身体を巻き込んだ勢いそのままに、軽やかな動きでクルリと一回転すると右脚を高々と振り上げる。
先輩の両脚がまるで床から垂直に伸びる一本の柱のように見える。そんなコトを考えた次の瞬間、先輩が右脚を倒れた金髪男の首筋に向かって振り下ろした。
バシン! という音に恐々目を向けると、先輩の右の踵が男の首筋の左側に見事に食い込んでいる。
「フン、あっけない」
もはや声も出せずにのたうち回る男に投げ掛けた先輩の言葉が、ホームで鳴り始めた発車ベルの音に被った。
「いつまでそんなトコロに寝ている、TPOをわきまえろ」
先輩、その言葉意味分かって使ってますか?
先輩がよたよたと立ち上がった金髪男の尻を蹴って車外に叩き出したのと、電車のドアがのんびり閉じたのはほぼ同時だった。今や一人ホームに残された金髪男がドア越しに何か喚いている。
先輩はさっきの母子のところに歩み寄ると、ベビーカーの中をそっと覗き込んだ。ベビーカーの中では、いつの間にか泣き止んだ赤ちゃんがじっと先輩の目を見つめ返している。
「よしよし、もう大丈夫だぞ」
赤ちゃんの頬っぺの涙を指先で拭いながら先輩がそっと呟く。
車内に拍手が起きた。買い物袋を提げた主婦が、先輩に向かって手を叩いている。さっきのお母さんを含めた他の乗客達も次々に手を叩き始め、車内が拍手に包まれた。
「おねえちゃん、つよーい」
お母さんの腕の中で男の子も手を叩いている。
「いやあ~」
照れて頭を掻く先輩の顔がいつものバカっぽい表情に戻っているのを見て、ボクは何となくホッとした気分になった。
「先輩」
立ち上がってよろよろと先輩に歩き寄る。
「今の何ですか?」
「じーちゃんから護身用に習った柔術だ。私のオリジナルも入ってるがな」
そう言いながら先輩がポケットからハンカチを取り出した。
「ジュージュツ?」
「陽輔、口…」
先輩がボクの口元をハンカチでそっと拭う。
「強いんですね、先輩。あれをボクに使わないで下さいよ」
ボクが冗談めかしてそう言うと、先輩はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「心配するな。陽輔が逃げようとするのを取り押さえる時しか使わない」
先輩、あなたやっぱりコワイです。




