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それは神が定めた出合い

 遠くからボクの名前を呼ぶ声が聞こえる。綺麗な女の人の声だ。


 よーすけー………


 空気の澄みわたった冬の朝に、山々に響いて消えて行くこだまのようなはかない余韻を残す声。けれどボクは答えない。答えられない。

 だってあれ、大井川先輩の声だもん。

 ボクは大井川先輩に見つからないよう、部室棟の陰に隠れてじっと息を潜めていた。

 世間にはやれぼっちだの、空気扱いされているだのと、人間関係の希薄さをなげく人達がたくさんいるが、そういう人達は今のボクの姿を見ても同じコトが言えるだろうか。「人間災害」大井川里見の追跡を逃れるため、ジメジメしたコンクリートの建築物の陰でちぢこまるボクの姿を。

 この世には、できればご遠慮申し上げたい人間関係というモノもあるんです。ホント。

「ヨーちゃん?」

 頭上から不意に聞こえた声に、ボクは犬の遠吠えを聞いた野うさぎみたいにビクンと体を震わせた。恐る恐る声のした方を見上げると、内野先輩が二階の美術部の窓から身を乗り出してボクのことを見下ろしている。

「しーっ」

 ボクが口の前で親指を立てるゼスチャーをして見せると、内野先輩は窓からひょいと引っ込んで姿を消した。しばらくすると建物の外に作りつけられた階段を降りてくる足音が聞こえて、壁の向こうから不審げな内野先輩の顔がヒョコッと覗く。

「何やってるの、ヨーちゃん」

 ボクは黙ったまま、船乗りを海に引き込もうとするセイレーンのような声がする方向を指さして見せた。


 …よーすけー………


 ホント、声だけ聞けばスゴく魅力的なんですケドね…。

「さっちゃん、呼んでるじゃない。行かないの?」

 内野先輩がこの世のけがれを何一つ知らない無垢むくな瞳でそう問い掛けながら、ボクの隣までトコトコと歩いてやって来る。

「先輩、今『T-レックスが口を開けてるじゃない。行かないの?』って言いましたか?」

 それを聞いた先輩は、またか、というようにフウッと溜め息をついた。

「ヨーちゃんって、ホント素直すなおじゃないよね。さっちゃんのコト気になってしょうがないクセに、そうやっていつも邪険じゃけんにするんだから」

「ボクが大井川先輩のコトを気にするのは、気象予報士が台風の進路を気にするのと一緒です」

「はいはい」

 内野先輩がねた子供をなだめるような調子でボクの言葉をはぐらかす。

 ふと訪れた沈黙。ヒンヤリとしたコンクリートの壁に背を預け空を見上げると、夏がもうすぐそこまで来ていることを告げるようにどこまでも真っ青な空が広がっていた。

「一度()きたかったんだけど…」

 内野先輩の声が、まるで空から降ってきたような錯覚を覚えた。

「…ヨーちゃんって、どういうきっかけでさっちゃんと知り合ったの?」

 そう内野先輩にかれたボクの気分は、もらい事故の状況を保険会社にたずねられるドライバーの気分と似たり寄ったりだったに違いない。

「あんまり話したくないんですケド…」

 少なくともボクにはその話が、青い空を見上げてするのに相応ふさわしい話とは到底とうてい思えなかった。

「いいじゃない。聞かせてよ」

 いつになく内野先輩が執拗に食い下がる。

「…そんな面白い話じゃないですけどね」

 先輩の追及をかわすのをあきらめたボクは、つま先で地面をつつきながらポツポツと話し始めた。




 入学式翌日、まだ新入生としての緊張がタップリ残ったままのボクは、かなりの余裕をもって早めに登校していた。まだ真新しい教科書やノートを机にしまっていると、教室の扉をガラリと開いて細身の美少女が姿を現す。

 ツカツカとこちらに向かって歩いてくるその女子生徒を見たボクは、ふとある疑問を抱いた。入学二日目で、クラスメイトの顔もまだうろ覚えではあるけれど、それにしてもこのクラスにこんな綺麗なコがいただろうか?

 そんなことをボンヤリと考えている間に、その女子生徒はボクの机の脇にたどり着いてそこで立ち止まる。

「おい…」

 見た目からは想像も出来ない威圧的な声。

「…お前、私の席で何やってる?」

 ボクは一瞬慌てた。まさか、間違えて隣の教室に入ったのか?

 だが気を落ち着けて周りを見回せば、確かに昨日見た顔がいくつも並んでいる。隣に座っている女の子も、昨日挨拶を交わした古賀さんに間違いない。

「誰、あの子?」

「あんなカワイイ子、うちのクラスにいたっけ」

 遠慮がちなささやきが周囲で行き交う。

 その時、ボクは自分の机の横に立つ女子生徒の上履きの縁取りが青であることに気付いた。

「もしかして…、二年生の方じゃないですか?」

 ボクはオドオドと女子生徒の顔をうかがう。

「ここ、一年B組ですけど…」

 この時ボクは既に事情を半分くらい察していた。

 この人、きっと三月までこの教室を使っていた上級生だ。習慣というか刷り込みというか、染み付いたクセと朝の眠気のせいで、通いなれたこの教室になかば無意識に入ってきてしまったらしい。

「…一年B組?」

 女子生徒が眠たげな目つきで不機嫌にうなる。

「はい」

 その女子生徒は来た時と同じようにツカツカと前の扉まで戻ると、ガラリと開いて柱の上部に取り付けられたプレートをしげしげと眺めた。

「ふむ…」

 思索にふける数学者のようなつぶやきを残して、その女子生徒は廊下の向こうにそのまま消えて行った。




「言うまでもないですが、その人が大井川先輩です」

 目をパチクリさせる内野先輩に、ボクはうんざりした気分で説明する。

「ぷっ…」

 我に返った内野先輩が突然吹き出した。

「あっはは。さっちゃんらしいなあ」

「笑い事じゃないですよ。あれからボクの高校生活が大変なコトになったんですから」

「でも心配いらないよ。さっちゃんにだって学習能力はあるんだから」

 内野先輩が目尻に浮かんだ涙を拭きながらボクをなぐさめる。

「どうでしょうね」

 ボクは目を細めてもう一度空を見上げた。


「大井川先輩、そのあとも二日続けて教室を間違ったんですよ」

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