大井川先輩の憂鬱
「なあ陽輔」
ある日の放課後、学校からの帰り道でのこと。
背中まで届くつややかな黒髪を風になぶらせながら、隣を歩く大井川先輩が口を開いた。
大井川里美さん。ボクの一コ上、高校二年生の女の子。
「何でしょう、先輩」
「ヤバいんだ…」
そうですか、ヤバいんですか。それはきっと相当ヤバいんですよね。なにせ自分のクラスのホームルームが終わるまで待ってろとボクに命じるくらいですからね。
「何があったんですか?」
先輩の目を見ながら聞き返す。いつもは鋭い光を放っている先輩の目が、この時はちょっと潤んでいた。
「…無くなった」
お腹の底から絞り出したような掠れ声。だけどボクは経験上知っている。この人がいくら悲しそうな顔をしてても、それを額面通りに受け取っちゃいけない。
「こ、今月のお小遣いがもう無くなった。来月までまだ十日もあるってい……ま、待て! おい待て!!!」
手で押していた自転車のサドルに急いでまたがろうとするボクの腕を、先輩が慌てた様子でガシッとつかんだ。
「たかるつもりはない!」
「当たり前です! そんなコトで四十分も校門で待たされた挙げ句にたかられる筋合いはありませんよ!」
ボクが思わずそう言い返したとたん、先輩の目がいつもの鋭さを取り戻した。
「…『そんなコト』?」
ヤバい。そこが地雷なの? 先輩の経済事情なんかより、こっちの方がずっとヤバそう。
「『そんなコト』だと!?」
怒号が飛んで来た。おまけに自転車から引きずり下ろされて逃走手段まで奪われる。
「無一文で十日も暮らさなければならない私のピンチを『そんなコト』だとおぉぉぉ!!!?」
理不尽だ。長々と待ちぼうけを食わされ、その上駅に向かう通りのド真ん中で恫喝されるとは。しかもその理由がまた極めてチープときてる。
この人、見た目はスゴく綺麗だ。実際黙って渋谷辺りを歩けば、百メートルごとに声を掛けられるんじゃないかっていうくらい綺麗。あくまで黙ってさえいれば、だけど。なのに、こうやって腹を空かせたドーベルマンみたいな目付きをするとそれが全部台無しになる。いや、見た目が綺麗な分、余計に残念な感じになる。
「だってそうでしょう?」
思わず反論。
「学生だってサラリーマンのお父さんだって、来月までサイフの中身が苦しい人は日本中いくらも居ますって。先輩だけじゃないですよ」
「何だと?」
先輩の目の鋭さが増した。
「私と同じ悩みを抱える人達が日本にはそんなに沢山いるのか?」
「そりゃあ、いくらもいるでしょうよ」
「政府は一体何をしているんだ!!!?」
「自己責任でお願いしますね!!!?」
ついついこっちまで声が大きくなる。
もし先輩みたいな自己管理能力に乏しい人のお小遣いを政府が補填してたら、きっと日本経済は遠からず破綻する。赤字国債の乱発よりヤバい。
「だいたい先輩、お小遣いいくら貰ってるんですか?」
ふと興味が湧いて尋ねてみた。
「五千円だ、月に」
「普通に貰ってるじゃないですか。一体何に使ったんです?」
この人のコトだから、服や靴を買ったとかじゃないのはまず間違いないトコロなんだが…。
「普通じゃないだろ! 少ないだろ、金額!? 『鳥八女』でヤキトリを五本食べたら十日で無くなるんだぞ!?」
ビックリだ。貨幣価値の判断基準がオッサンぽいよ、この人。なんか他に高校生らしい例えは考え付かなかったのか? それに何ですか? その今日にでも営業取り止めになりそうな名前の店。
「あそこのハツ、塩で食べるとスッゴク美味しいのに!!!」
「実際食べてるんだ!?」
スゴい。とても現役女子高生の行動とは思えない。
「…まさか制服のままで?」
恐る恐る確認する。
「それはそうだろう。学校帰りに寄るんだからな」
スーツや作業着の群れに混じってヤキトリをパクつくブレザー姿の先輩を想像したら、突然軽く目眩がしてきた。
「と、とりあえず、店に行く回数か食べる本数、どっちか減らして下さい…」
目眩に耐え、真っ直ぐ歩くことに全神経を集中しながらやっとそれだけ口にする。
「私に死ねと!?」
「死んじゃうんだ!?」
あ、叫んだら目眩が酷くなった。
「ゆ、夕食までの私の体力を保つギリギリのカロリーなのに…」
「…どんだけ燃費悪いんですか、先輩」
そう言ってふと隣に並ぶ先輩の全身にさっと目を走らせる。身長はボクよりほんの少し低く、身体つきはほっそりしている。きっと食べても太らない体質なんだな。
それにしてもこの人、あらためて思うけど「一般的な女子高生の人物像」から色々はみ出したり引っ込んだりし過ぎ。
ションボリ俯く先輩を隣に従えて歩くこと数分、通りの向こうに駅が見えてきた。電車通学の先輩とは駅前でお別れ。
コッソリと盗み見ると、先輩がまるでおやつを食べ損なった子供みたいな顔をしている。
この大井川先輩っていう人、頭が悪いし色々ズレてはいるが、一方でこれ以上ないくらい純朴だ。それだけに落ち込んだ時の顔を見てしまうとどうにも放っておけない。それでこの数ヶ月、自分の首を何度となく締めてきたというのに。
「何か食べて行きますか」
ボクの溜め息まじりの言葉に、先輩の顔が一瞬ぱあっと輝く。だがすぐに悲しげな表情に戻って俯いた。
「たかるつもりはない、と言っただろう」
「夕食前に餓死されるより、たかられた方がましです」
半分本心なのが我ながらスゴい。放っとくと本当に餓死しそうだと思わせる先輩はもっとスゴい。
その先輩はというと、らしくもない穏やかな微笑を浮かべてボクの顔を見つめている。
「陽輔のそういうところ、スキだ」
知り合った頃は「棚橋」って普通に苗字呼びだったのに、たった二ヶ月でいつの間にかファーストネームを呼ばれるようになっていた。「スキ」なんて言葉を何の抵抗もなく使って見せるし。この距離感0っぷりがまた先輩らしい。
「何を食べたいですか?」
先輩の言葉が耳に入らなかった振りをしながら言った。
「そうだなあ、今日の気分は…」
先輩がキラキラと目を光らせる。
「…韓国海苔とドンブリ飯!!!」
…それ、どんな気分なんですかね。せめて駅前で普通に食べられるモノにして下さいよ。