<プロローグ>
<プロローグ>
異様な雰囲気を漂わせる木造の旧校舎、その玄関先には立ち入り禁止の張り紙が張られている。
新校舎が建てられた後、旧校舎は解体される予定だったらしいが、旧校舎の解体を請け負った業者が突然倒産したり、解体の調査中に原因不明の事故が起きたりと、次々と解体を請け負った業者は不可解な事件に巻き込まれ、解体工事を延期せざる得ない状況に追い込まれていった。
当初はこの旧校舎を根城にしている不良連中の仕業ではないかと掃討作戦まで計画されたがその計画すらも中止に追い込まれる事態となり、今では不良連中の無法地帯と化し朽ち果てたまま放置されていた。
そして、俺はその旧校舎の入り口へ続く獣道を重い足取りで歩いていた、視界の先にはガラスの割れた木戸があり、そこから廃墟化した旧校舎の中に足を踏み入れた。
周囲を見渡して、思わずため息が漏れる。
意味不明な落書きで埋め尽くされた壁、モザイク模様のように床に広がるガラスの破片、教室には古び朽ちた机や椅子などが無秩序に投げ込まれていた。
廃墟と呼ぶに相応しい状態の板張りの廊下をガラスの破片を避けながら進んだ、床を踏みしめる度に歯ぎしりのような軋み音が不気味に響き渡る中、先へと進んでいき廊下の突き当たりに差し掛かった時だった。
『なぜ、俺はこんな所に居るのか?』
抱いてはいけない疑問が再び脳裏に浮かびその場で足を止めた、間もなくその返答は後悔の念と共に独りでに口から漏れてた。
「くだらない、帰るか・・・」
脳裏を駈け巡る回答は全て打ち砕かれ、その残骸は虚脱感へと変貌し俺の思考を全て奪っていった。
夢遊病者のように廊下をフラフラと漂い落書きだらけの壁を横目に歩いていると、床の軋む音が雑踏のように騒々しく空虚化した脳裏に木霊している。
あまりの不快感に周囲を見渡すと、床には朽ち木に混ざり煙草の吸い殻やゴミが散乱し異臭を放っている、俺は気がつかぬ間に出口を通り過ぎてさらに奥へと進んでしまっていたようだ。
「一体、俺は何をやってんだ」
冷静を取り戻した俺の思考回路が回復しかけた時、突然、廊下に悲痛で切迫した叫び声が響き渡たった。
「いやぁー止めて!」
静寂の空気は一瞬で切り裂かれ、騒々しい足音と怒声が怒濤のごとく押し寄せる。
「待てよっ!」
「痛いっ、離して」
「おらっ!逃げんじゃねえよっ!こっち来いっ!」
「えぃっ!」
「おいっ、この女の手を押さえろっ!」
「いやっ、やめてっ」
「おらっ、暴れんじゃねぇよ」
「どうして出ないのっ!お願い、出てよっ!えぃっ!」
「けっ、手を押さえれば、こっちのものだっ!」
「嫌だっ!離して、助けて!」
恫喝に打ち消された声を耳にして、破綻していた脳は完全に覚醒しても、身体は脳からの指令を待たず、悲鳴へ向かって疾走していた。
蹴散らされた朽ち木、ガラスの破片が次々と音を立て粉々と舞い散ちる中、悲痛に満ちた少し訛りのある声がダイレクトに耳に飛び込んでくる。
「いっ、痛いよ、私、なにもしてないよ、許して」
北海道から転校してきた少し謎めいた女の子に間違いないと俺の覚醒した脳は確信した。
「てめぇ、道産子がこんな所で何をやってんだよ、言えよっ!」
「なにもしてないって・・・嫌だ、離してよ」
「今度は逃がさないよ、覚悟しな、おらっ、こっちに来い!」
「嫌だぁ~助けて~!」
廊下の突き当たりが視界に入った時、響いていた声は急に途絶えた、左右を見渡す視界の先、突き当たりのガラス越しに数人の人影が写り突っ走しった、嘲弄に混ざって怯えながら哀願する震えた声も微かに聞こえてくる。
「いやっ、ゆ、許して、お、お願い、や、やめて」
彼女の身に危機が迫っていると感じた瞬間、大量の水が叩きつけられる轟音で彼女の声は打ち消され、あざ笑う低脳な声が扉の内側から響き渡った。
力任せに開けた扉は戸車がレールから飛び出し、破砕音を響かせた後、ひしゃげ朽ち落ちていくのを背後に中へ飛び込んだ俺は声を上げた。
「なにをやっているんだ!」
目前に広がる光景は予想通りだった、壁際に追い詰められ、ずぶ濡れになったジャージ姿の女の子が捨てられ雨に打たれた子猫の様に震えながら顔を埋め身を丸めていた。
「阿部さん、大丈夫かっ!」
強ばらせた身体を緩めた彼女はゆっくりと顔を上げ、俺に見せた安堵の表情は意気揚々と気勢を上げるアホな女に遮られた。
女は眉をひそめて威嚇するような身構えで迫り寄ってくると、気怠そうに口を開いた。
「はぁーん、なんだ、テメー」
周りを取り囲んでいた取り巻き達も一歩二歩と血気盛んに間合いを狭めると、ニヤニヤと不気味な笑みを溢していた。
「君たちには用はないんだ、ちょっと、どいてくれないかな」
「はぁん、テメー、死にてえのかっ!」
「確かに、さっきまで脳みそが死にかけたけど、今は正常に動いているみたいだ」
「テメー、訳の分からねー事を言ってんじゃねぇ、そんなに死にたきゃ、望み通りにしてやるよっ!」
気勢を上げた女は臨戦態勢で間合いを詰めてきた、その隙を見た俺は女を斜に避け、不安そうな顔をして見守っていた彼女の傍らに寄り添った。
「心配しなくてもいいよ、もう、大丈夫だからな」
膝を抱え小さく身体を丸めていた彼女はぎこちない笑顔を見せた、その顔の唇は青ざめ小刻みに震えていた、幾筋も滴がショートカットの髪から垂れていた。
「立てる?」
ゆっくりと頷いた彼女をそっと抱きかかえゆっくりと立たせようとした時、俺の背後を指さし声にならない大きな口を開くと同時に女の怒号が響き目を閉じて身を強ばらせた。
「この野郎っ!」
殴打する金属の鈍い音と同時にタイルやガラスの破片が床に舞い散った。
「危ないなぁ~彼女に当たったら怪我するだろ」
敵意をむき出し鉄パイプを手にした仁王立ちの女と目が合った。
「ふざけてんじゃねー!テメーっ、余裕ぶっこいてられんのも、今のうちだぞ」
「いやいや、今のはわざと外してくれたのかな」
一瞬、素の顔に戻った女は、すぐに気勢を取り戻して気勢を上げた。
「そっ、そうだよ、今のはわざと外してやったんだよ、テメーは運が良いな」
「そういえば、おみくじは大吉しか引いた事がないからなぁ~」
「うるせーっ!ふざけた口を叩くなっ!今度はマジで外さねえからな、そこの女を置いてさっさと出て行けっ!」
「こんな、か弱い女の子をこんな物騒な場所に置いて、帰れないよ」
「けっ!なにがか弱いだ、こっちはな、その女に手を焼いてんだよっ!」
女は勢いよく鉄パイプを突き出して彼女を威嚇した。
「それなら人違いだって分かっただろ、何も抵抗してないのに、こんな水を掛けられて、可哀想だろ」
「知るかボケっ!いちいち、うるせーんだよっ!てめーもこの女と一緒に痛い目に遭いたいのかっ!」
「この子はここがどういう所か知らないで、迷い混んじゃっただけなんだから、許してあげてよ」
庇うように彼女を抱きかかえた。
「迷い混んだ?冗談じゃねーっ!ふんっ!それに、テメーこそ、ここに何をしに来たんだよっ」
「俺のこと?あれっ?なんでここに来たんだろ?忘れちゃた・・・と言うことで、さてと、帰りますか」
彼女を抱え上げ出口へ向け踏み出そうとすると、動きだした取り巻き達が出口にバリケードを築いた。
「テメーっ!ふざけんじゃねーっ!生きて帰れると思ってんのかっ!」
「だって、この子、早く着替えさせてあげないと、風邪引いちゃうし・・・」
「はぁーん、女の心配をする前にテメーの心配をしなっ!」
脅し文句を吐き捨て女は鉄パイプを床に投げ捨てた、床に唾を吐くとファイティングボーズで挑発を繰り返した。
「なに、なに、そんな、止めてよ」
「はぁん、今ごろ、怖じ気ついてもおせーんだよ」
「なかなか強うそうだね」
「けっ、テメー、女だと思って舐めてただろ」
「今度、デートしてあげるから、今日は帰らせて欲しいなーなんて」
「この野郎っ!ふざけやがって、痛い目に遭わないと分からないみたいだなっ!」
鋭い眼光を放ち身体を左右前後に振り緊迫した雰囲気を漂わせた。
「分かった、ごめん、ごめん」
降参のサインを女に送るとニヤリと不適な笑みをこぼした、間合いを確認するかのようにステップを踏み始め唾を吐いた。
「ふんっ、ビビってんじゃねーよ、へっ、今頃、後悔しても、おっせーんだよっ!」
張り上げる怒声と同時に襲い掛かってきた、勢いよく拳が突き出される、抱きかけていた彼女は迫まる恐怖に顔を覆って床に沈んでいった。
目前には殺傷力のある金属が握られた女の拳が迫まっていた、俺は仕方なく左手を上げ女の拳をつかみ取り、目前でハッと呆気に取られた女の顔が遠ざかっていった。
不意に宙を舞った女の身体は体勢を取り戻せずに不格好な姿で床に叩きつけられ女は口を半開きにしたまま放心していた。
取り巻き達は一瞬の出来事に理解が間に合わずに女の様子を黙り込んだまま呆然と眺め息を飲んでいた。
「ねぇ、大丈夫?」
問いかけに我に返った女は倒れ込んだまま気勢を発した。
「テメーっ!やりやがったなっ!」
「あの・・・見えてるけど・・・趣味の悪いおパンティー」
ふと、スカートが捲れ上がままになっている自分の姿を見た女は、顔がみるみると赤くなり乙女の恥じらいを覗かせ捲れ上がったスカートを慌てて直すと、獣のような目をして低い怒声で呻いた。
「ぶっ殺す」
床に落ちていた鉄パイプを手にし悠然と立ち上がった女は我を失ったかのように殺意に満ち、握りしめた鉄パイプを振り回しながら攻め寄ってくる。
「ちょ、ちょっと、落ち着いて」
「死ねっ!」
「だ、だから、そんなの振り回したら、危ないって」
常軌逸した只ならぬ雰囲気に怯えた彼女が俺の左腕にしがみついて、身動きが自由に取れない状況になっていた。
「う゛ぅ、テメーは許さねぇ」
「ちょっと、それじゃ、彼女だけでも帰してあげてよ」
「ふんっ、まだ、格好つける余裕があるのか、分かってねーな、テメーは死ぬんだよっ!」
女は鉄パイプを両手で握り締めると頭上に振りかざした、今度は威嚇でなく本気で当てにきている。
鉄パイプが風切り音を立てる弧を描いた軌道は直撃を免れなく、この状況で最善の方法を考えている余地もなかった。
「ごめん!」
「うわっ!」
しがみついている彼女の手をふりほどき取り巻きの方へ突き飛ばすと、女はそれに気を取られたのか振り下ろす軌道が僅かにぶれ、その隙に鉄パイプを掴み取り横に反らせた。
「くそっ!」
掴み取った鉄パイプを引っ張ると、冷静さを失っている女は反射的に引き戻そうと身体を後ろに反らせた。
「テメーっ!離せっ!」
「はいよ」
鉄パイプを押し戻し突き放つと、顔色を変えた女は奇声を上げて宙を舞った、背中から壁に激突した鈍い衝撃音がすると、呻き声を上げ壁伝いに崩れ落ち力なく頭を垂らした。
「突き飛ばしてゴメンね、怪我しなかった?」
取り巻き達と一緒にキョトンと座り込んだままの彼女に手を差し伸べた。
「う、うん、平気・・・あの女の人、死んじゃったの?」
「あの程度じゃ死なないよ、気絶しているだけでしょ」
取り巻き達は鬼気恐々と微動だもない女に駆け寄り、身体を揺さぶりなが捲れ上がったスカートを必死に直していた。
「よし、今のうちだ」
少し笑顔を見せた彼女を抱え出口に向かおうとすると、取り巻きの一人がスッと立ち上がり、意気込みながら立ち向かってきた。
「テメーっ!さっさと帰れっ!」
「言われなくても、そうさせてもらう」
薄暗い廊下を歩いていると、急に立ち止まった彼女の唇が動いた。
「助けてくれて、ありがとう」
「ああ、危ないところだったな」
「うん、本当にありがとう、助かった・・・」
「でも、なんで、こんな所に入って来たんだ、立ち入り禁止の張り紙が貼ってあったの見えなかったのか」
「う、うん、倉庫と間違えちゃった」
「倉庫?入り口がバリケードで塞がれているんだぞ、間違えないだろ」
「そうか、なんか変だなとは思ったんだけど」
「それに、この旧校舎は普通の廃墟じゃないって、教えてもらってなかったのか」
「普通じゃないって?」
「さっきの連中みたいのが大勢集まって来てるんだよ、他の学校の奴らもよ、さっきの奴らももうちの制服じゃなかっただろ」
「なんで?」
「知らねーよ、裏の雑木林から普通に入れるからだろ」
「どうして、壊したり、先生達は注意しないの?」
「そんなの知るかよ、そんな事より、俺さ、いつも気になってんだけど、阿部さんって、休み時間になると教室からすぐに出て行っちゃうだろ」
俺の問いかけに急に彼女は視線を逸らし俯いて黙り込んでしまった、予想外の反応にどう言葉を返した良いのか戸惑った。
「いや、別に、そんな、いつも、見てた訳じゃないけど、その・・・」
「私のことを気にしてる人なんて、居ないと思ってた・・・」
「いや、他のクラスに友達が居て、そいつの所に行ってるなら、いいんだけど」
「それじゃ、そういう事にしておいてよ」
「って事は違うって事なんだろ、いや、いつもどうしているのかなと思ってて・・・」
「もう、何でもいいじゃない、私が休み時間に居ない事で誰かに迷惑を掛けてるの?」
「そうじゃないけどよ・・・」
「私、一人が好きなの、だから、気にしないで」
「一人で寂しくないのか?」
黙ったまま左右を頭を振った彼女は先を歩いた、ジャージの裾から滴が落ち床を点々と濡らしていた。
「これで、とりあえず、拭きなよ」
鞄に入っていたタオルを彼女に差し出した。
「ありがとう、でも、汚れちゃうから・・・」
「なに言ってんだよ、いいから、使えよ」
「う、うん、だけど・・・」
「だけどじゃねーよ、使えって言ってんだろ」
突き出したタオルを小刻みに震える手で受け取りった彼女は濡れた髪にタオルを当て滴を拭った、水を頭から掛けられずぶ濡れになっているジャージの生地がピッタリと身体に貼りついて、大きな胸のラインがくっきりと浮かび上がっている彼女の様子を横目で見ていた。
「あの・・・休み時間、いつも教室に居ないと変だと思われる?」
急に顔を上げた彼女と目が合い俺はハッとして目線を反らした。
「い、い、いや、べ、別に、変とかじゃないと思うけど・・・」
「そう、それなら良いけど・・・」
「なぁ、いつも教室に戻って来る時、なんかガッカリしたみたいな、なんか困ったような顔して帰ってこないか」
「えっ!私、そんな顔してる」
「休み時間に何か嫌な事をさせられているとかよ、何か困っている事があるならさ、俺に言ってみろよ」
「言ったら何とかしてくれるの?」
「やっぱり、そうなのか、本当はここにも誰かに呼び出されて来たんだろ」
「そうじゃないの」
「分かってる、誰にも言うなって脅されているんだろ、大丈夫、俺に言ってみろ」
口ごもるように話していてた彼女の口調が荒立ち始めた。
「もうっ、あなたには関係ないでしょ」
言い放った彼女はバリケードの小さな隙間から外に出て行ってた俺はその後を追った。
「待てよっ!」
彼女は旧校舎から少し離れた場所で立っていた。
「なんだ、居たのか、急にどうしたんだよ」
「追ってきたような気配がしたから」
「おいっ、そうだったなら、俺にも言えよ」
「だって、強いからなんとかなるでしょ」
「おいおい、そういう問題じゃないだろ」
「ハックション!」
小さな身体を更に縮めて小刻みに震えていた。
「おい、大丈夫か、早く着替えないと、風邪を引くぜ、着替えあるのか?」
「ないけど」
「それじゃ、俺のジャージを貸してやるから」
「そんないいよ、平気、平気、大丈夫だから、あっ、これありがとう、洗濯してから返すから、それでいい?」
「タオルなんてどうでもいいから、とにかく、そんな濡れたまま帰ったら、ダメだって、ほらっ、行くぞ」
校舎の方向に彼女の手を引いた。
「ねぇ、どこに行くの、校舎の中にはもう入れないんだよ」
「へへへっ、裏から入れるんだよ、知らないだろ」
「でも、先生達がまだ中に居るでしょ、見つかると困るの」
「そんなの、俺だって困るよ、説教されんの俺だもん」
「私だって怒られる」
「そんな事はないよ、阿部さんは真面目だろ、俺が絶対に悪者扱いだよ、下手すりゃ、阿部さんに水を掛けたのも俺のせいにされそうだよ」
「それは私が違うって言えば・・・」
「それじゃ、誰にやられたんだって事になんだろ、正直に言ったら、旧校舎に入ったのバレちゃうだろ」
「それも困るから、このまま帰るよ」
「ダメだって、俺に任せておけよ、先公に見つかりそうになったら、阿部さんだけ逃がすからよ」
「そんな、だって」
「心配するな、先公に見つかるようなヘマしねーからよ!」
俺は彼女の手を引いて校舎の裏側に回った。
「ココだよ」
「えっ、これって時間外の通用口じゃないの?」
「そうだよ、時間外だから、時間外の通用口を開けても何も問題ない」
「そうだけど、これ、中からは開くけど、外からは開かないんじゃないの?」
「開くよ、これを押せば」
「えっ!ダメだよ!それは守衛室に通じてるんだよ」
「だから、いいんじゃん」
しばらくするとインターフォンからいつもの気怠い声がした。
「おっちゃん、俺、ここ開けて欲しいんだけど」
「また、おまえか」
「通路に先公いない?」
「いねーよ」
「おっちゃん、いつも、悪いね」
「お互いさまだろ」
ノブを回しドアを開け彼女の手を取った。
「阿部さん、今のうちだ行くよ」
「う、うん」
彼女は中に入ると見慣れているはずの職員室前へ続く廊下をきょろきょろと見ていた。
「どうしたの?」
「守衛さんと知り合いなの?」
「知り合いっていうか、ギブアンドテイクの関係」
「ふーん、詳しく聞かない方が良い?」
「おいっ!変な関係じゃねからなっ!勘違いするな」
「しーっ、大きな声出さないでよ、先生が来ちゃうでしょ」
「あっ、そうだな、阿部さんが変な勘違いをするからだろ」
「勘違?私は詳しく聞いたら悪いのかと思っただけだよ」
「違うからな、その確かに、詳しくは言えないけど、その男同士の友情だよ」
「あの守衛さんと・・・友情・・・?ふーん、そういう関係?」
「だから、違うって!」
「しーっ」
階段を上がり教室のある廊下を進んだ。
「だから、違うからな」
「さっきから、何が違うのか分からない、なにが違うの?」
「怪しい関係じゃないって事だよ」
「よく分からないけど・・・」
ロッカーを開けてジャージと新しいタオルを取り出し彼女の差し出した。
「ほらっ、これ、阿部さんにはでっかいかもしれないけど、風邪を引くよりはマシだろ」
「うん、ありがとう」
「俺、廊下で見張ってるから、早く着替えちゃえよ」
青ざめた唇をした彼女は頷いて教室の中へ入っていった。
廊下の壁にもたれ天井を見上げていると、廊下に着替える物音だけが微かに響いていた。
不可解な彼女の行動が気になった、旧校舎の現状を知らなかったとしても、彼女が中に入ろうと思う理由が分からない、倉庫と間違えたとも思えない。
『まさか、俺の夢が・・・そんなバカな』
夢で彼女が旧校舎に出入りしている場面を幾度か見た、どうしてそんなあり得ないような夢を見るのか、俺はその疑問を解消するために旧校舎に足を踏み入れた結果、更なる疑問が浮上してしまった。
彼女が旧校舎へ行く理由を想定する事が出来ない、そもそも、あんな廃墟のような怪しい建物に普通は近寄らないし、まして、中へ入ろうとはまず思わないだろう、俺は思考を巡らせながら天井の模様をぼんやりと眺めていた。
「あの・・・」
彼女の声にハッと視線を戻すと、大人の服を子どもが着ているかのように、大きすぎるジャージの袖や裾を必死にたくし上げている彼女の姿があった。
「あはははっ、阿部さんにはデカ過ぎたか、でも、濡れたまま帰るより良いだろ」
「うん・・・下着まで濡れてたから・・・あの・・・シャツも一緒にあったから・・・借りちゃった」
「あっ、あ、そうか・・・お、俺は全然構わないけど・・・」
「それと・・・」
「えっ、あ、あと、なにか」
「あの・・あと、教室に鞄・・・忘れてたから・・・連れてきてくれて、ありがとう」
「なっ、なんだ、そんな事か、そうだよな、鞄を持ってなかったもんな、あはははっ、鞄の事を忘れていたのか、意外とドジなんだな」
「だって、だって、こんな事になるなんて想像してなかったんだもん、ドジじゃないもん、プン」
意外な彼女の子どものような仕草が愛らしく思えた。
「あはははっ、阿部さんってなんか可愛いな」
「なによ・・・」
「ほらっ、髪がまだ濡れているじゃないか、ほらっ、拭いてやるから、タオルよこせよ」
奪い取ったタオルを頭に覆い被せてバサバサと揉みくちゃにした髪から、女の子らしいシャンプーの微かな匂いが漂った。
「い、やだ、髪がボサボサになっちゃう」
「濡れてたままじゃ、風邪を引くだろ」
「もぉ~、乾いてるよぉ~、いやだぁ~」
「そっか?こんなもんか、ほれっ」
タオルを取ると彼女はまるで風呂上がりかのように色白の頬を赤らめて俺を見上げていた。
「もうぉ、髪がボサボサになちゃったじゃん」
口を尖らせ無邪気に乱れた髪を手で解き整えている彼女の仕草も愛らしく、思いが自然と口から漏れた。
「阿部さんって、本当に可愛いな」
髪を解いていた彼女の手が急に止まり怪訝な顔で目を細め、黙ったままじっと俺の顔を見上げている、俺は彼女の意図しない反応に言葉を失い困惑し、沈黙の続く時間が重くのし掛かかっていた。
「な、なんだよ」
「可愛いってどういう意味よ?」
「別に・・・だから、その仕草とかが可愛いと思ったから」
「バカにしてるの?私、そんな言葉を真に受けたりしないから、今日は助けてくれてありがとう」
一礼した彼女は怪訝な表情を変えず、背を向けると廊下を歩き始めた、俺は慌てて彼女を追いかけ立ち阻みながら話し掛けた。
「ちょ、待ってよ、バカにしてないって、その、本当にそう思ったから、言ったんだ」
「思うわけないでしょ、ウソを言わないでよ」
「ウソじゃないって、本当だって」
「そっ、それはどうも、有り難う御座います」
社交辞令の様に頭を下げた彼女は、俺の横をすり抜け足早に玄関の下駄箱に向かっていった。
「ねぇ、待ってよ、家まで送っていくよ」
言葉を背中で受けている彼女は立ち止まらずに、足早に頭を左右に振るだけで下駄箱の前で運動靴に履き替えようとしていた。
「ねぇ・・・」
「もうっ、一人で帰れるって言ったでしょ」
「玄関からは出られないけど」
「あっ、そうだった・・・てへへっ」
「ぷっ、それに、履き替えようとしてるの、上履きだよ」
「そっか・・・」
「阿部さんって意外とおっちょこちょいなんだね」
「違うもん」
頬を膨らませ口を尖らせながら、彼女は廊下の方へ向きを変えた。
「そっちじゃないよ」
「じゃーどっち」
「こっちだよ」
彼女は引きずりそうなジャージの裾をたくし上げながら小走りに近寄ってきた。
「どこに行くの?時間外の出口はあっちでしょ?」
「守衛室で先公と出くわすと面倒だろ」
「裏口から出るの?」
「そう、守衛のおっちゃんが鍵を持ってるから」
廊下の突き当たりにある守衛室へ行く扉を開けて、事情を話して裏口から校外へ出してもらった。
「阿部さんの家ってどっち?」
彼女が指さす方へ向かって歩き始めた。
「もう、一人でも平気だけど・・・」
「俺の家もこっちだから、家の近くまで送って行くって」
「う、うん・・・ねぇ、いつも綺麗な人と一緒だけど・・・」
「俺がいつも?綺麗な人?誰の事を言ってんだ」
「隣のクラスなのかな?いつも、ダーリンって」
「なんだ、彩矢の事かよ」
「あやさんって言うんだ、綺麗な人だなと思って」
「あんな薄っぺらのどこが綺麗なんだよ」
「付き合ってるんでしょ、私と一緒に帰ったりして大丈夫なの?」
「ぷっ、ぶぁはははっ!それで、阿部さん、一人で帰るって言ってたのか?」
「う、うん・・・迷惑になると思って」
「なんだよ、付き合ってねーって、もしかして、あいつが言い振らしているのか」
「だって、仲が良さそうだし・・・」
「まぁ、そりゃ、ガキの頃からの知り合いだからな」
急に彼女は微笑を浮かべて俺を見た。
「幼なじみなんだね、いいなぁ~」
「なにが良いんだ、だから、あんな女とは付き合ってないから、なにも気にすることはないからな」
「そうだね、そもそも、私なんて相手にされてないと思うし」
少しだけ頬を紅く染めた彼女は、道端に転がっていた石ころを運動靴でチョコチョコと蹴飛ばしながら歩いていた。
「相手にされないって、どういう意味だ」
「えっ?なんのこと?」
「だから、阿部さんがだよ」
「あーさっきの話しの事」
「そうだよ」
「あやさんが私なんて相手にしないでしょ、だって、私はこんなチビでデブだし・・・お饅頭を潰したみたいな顔だし、それに比べて、あやさんはスタイルは良いし、服のセンスも良いでしょ、頭も良いんでしょ、私なんて一つも勝ててない」
「阿部さんは、もっと、自分に自信を持った方が良いぞ、阿部さんの事を好きになる奴だって居るだろ」
「誰も居ないと思うけど」
「いや、絶対に居るよ」
「優しいんだね、うん、居たら良いね、どうせなら良い夢で終わりたいけど・・・まぁ、無理だね」
「無理だって決めつけるなよ」
彼女は目を伏せたまま足下の石ころは彼女の歩幅に合わせにコロコロと転がっていた、しばらくすると彼女の口元が僅かに動いた、その言葉は俺の耳にも僅かに聞こえた。
「夢か・・・」
「なんだよ、夢って」
ハッとした様子で俺の顔を見た彼女は左右に首を振った。
「えっ、あっ、ううん、何でもないよ、こっちの話」
「俺さ、最近、よく阿部さんの夢を見るんだよな」
「なにを言ってるの、それはウソでしょ、そんなの見る訳がないでしょ」
「いや、本当だって、実は、今日もさ、不思議なんだけど・・・」
彼女は急に足を止め凄い形相で俺を見ていた。
「ウソでしょ」
「なんだよ、俺、ウソなんてつかねーって、マジだって」
「だ、だって、そんなのあり得ないでしょ」
「あり得ないって、俺、まだ、なにも話してないけど・・・いや、だから、不思議なんだって」
「私の夢を見たって言ったよね、それ、あり得ないから」
「だから、どうしてだよ、俺の夢なんだから、あり得ないって、そうじゃなくてよ、俺が言いたいのは阿部さんが旧校舎に居た事だよ、まさか、夢の通りに阿部さんが旧校舎に居たからよ、俺も正直、驚いたよ、正夢ってあるんだな、偶然にしても旧校舎なんかさ、阿部さんが入る訳がないと思ってたから」
「そ、そ、そんな、ウソでしょ、私が旧校舎に居る夢を見たの?」
目を見開き何か恐ろしいものでも見るかのような顔して身体までも震わせていた。
「おい、おい、そんなに驚くなよ、偶然だよ、でも、今日のはちょっと驚いたな、まぁ、結果として良かったよな、あのまま、あいつらに良いようにやられなくて、でもよ、なんで、旧校舎なんかに行ったんだよ、本当に倉庫を間違えたのか?でも、なんか、阿部さんならあり得る話だな」
「ちょっと、それ、どういう意味よっ、私、ドジっ子でもないし、おっちょこちょいでもないから、それより、その話、本当なの」
「ああ、本当だよ、さっきから、マジだって言ってるだろ、なっ、不思議な話だろ、でも、阿部さんが倉庫と間違えて、旧校舎に入っちゃうとはな」
「違うって、そんな間違えるわけがないでしょ、誰が倉庫だと思うのよ、バリケードがあって張り紙までしてあるんだよ、間違える人なんて居ないでしょ」
「ああ、でも、阿部さんなら、間違えて入っても納得出来る」
「ちょ、ちょ、ちょっと、なんでよ、私ならあり得るって、そんな、私の事をどう思ってるのよ」
「おっちょこちょいのドジっ子」
「ちょ、ちょっと、止めてよね、私、そんなんじゃないから」
「そんな、怒るなよ、冗談だって、なんだ、阿部さんって結構しゃべる子なんだね、もっと、無口な子なのかと思った」
「無口とか勝手に決めないでよ、その私が夢に出た話し、本当なのね」
「そうだよ、良いだろ、阿部さんの夢を見たって、俺が見ようと思って見てた訳じゃないし」
「絶対にあり得ないのっ!」
「だから、なんでだよ、俺の夢だぞ、あり得ないってどういう事だよ」
「それは、私が夢に出てくる私だから」
「ああ、それがどうしたの、阿部さんじゃない阿部さんが出てくる訳がないもんな、ってか、それ誰なの?ってなるもんな、それがあり得ないって意味が分からない」
「だからね、本当の私はここに居なくて、今、ここに居る私は夢の中に居る私なの、だから、夢の私がここに居るのだから、夢に出る訳がないの」
「はぁ、阿部さんって双子なの?」
「ち、違うって、もぉー、そういう事じゃなくて、いい?夢に出る私、それで、現実に生きている私、通常なら、夢の私が現実に存在する事はあり得ないんだけど、色々と事情があって、夢の世界から現実に来たの、その影響で現実に居る私が現実には存在してない状態なの」
「へぇー阿部さんって、夢の世界とか言ってる、不思議ちゃんなんだ、知らなかった」
「きぃーっ!不思議ちゃんって、違うんだってばぁ~」
「あはははっ、阿部さんって、面白いんだな」
彼女の家までの僅かな時間だったが、転校して来てからまともな会話をしたのは今日が初めてだった、にっこり頬笑んだ彼女は軽く手を振った。
「それじゃ、ここで、送ってくれてありがとう」
「えっ、そ、そうか・・・阿恵さんの家ってこの辺だったのか」
「うん、あそこの白い壁の家」
彼女が指さす先に目線を移した、ぼんやり灯った明かりの中にうっすらと人影が映っていた。
「この借りたジャージ、洗濯して、明日、返すね」
「いいって、そんな洗わなくても、そのまま返してくれれば良いから」
「でも、悪いもん・・・うち、乾燥機あるから、すぐに乾くし」
「そうか・・・あのさ・・・それより・・・」
彼女は小首を傾げ、ショートカットの髪が微かに揺れていた。
「なに?」
「あ、あのさ、その・・・明日もこうして一緒に帰らないか?」
「どうして?」
「あっ、いや、その・・嫌ならいいけど・・・近所だし・・・」
「嫌とかじゃないけど・・・デートの約束とかあるんじゃないの?」
「そんな約束なんてある訳ないだろ」
「そんな事ないでしょ、だって・・・あの・・・隣のクラスの彼女は」
「だから、違うって言っただろ、そりゃ、仲が悪い訳でもないけど・・・でも、別に付き合っているとかじゃないんだ、その色々な事情があってよ、ただ、俺さ、阿部さんとなんかもっと話しがしたいんだ」
「ねぇ、私と話しがしたいって、誰かにそう言われたの?」
「はぁ?誰かに?なに、言ってるんだ、意味が分んねえよ」
彼女は、一度だけ頷くと俺の手を握って、彼女の家とは別の方向に誘い歩いた。
「まだ、時間、大丈夫?」
「ああ、別に、俺は平気だけど、どうした」
彼女は俺の返事を聞くと無言のまま歩き、近くにあった児童公園の滑り台へ向かった、外灯の青白い明かりだけが地面を照らしていた。
急に立ち止まった彼女は振り返り俺の顔をじっと見ると口を開いた。
「あの、本当の事を言って」
「なんだよ、俺は嘘なんてついてないよ、本当なんだって、あいつとは・・・」
「違う、その事じゃなくて、さっき、旧校舎に来たのは偶然って言ってたよね、本当は私が旧校舎に居るの知ってたとか」
「それは・・知ってたというか、その・・・阿部さんが旧校舎で何かを探しているのを夢で見たんだ・・・」
驚愕に目を見開いた彼女の表情が明かりに照らされ、彼女は俺の両腕を掴むと押し迫ってきた。
「それって、本当の本当の本当の事なの、正直に言って欲しいの、絶対にあり得ない事なんだから」
「なんで俺がそんなウソをつく必要があるんだよ、だいたいよ、あり得ないってさっきも言ってたけど、俺がどんな夢を見るかなんて分からないだろ」
「だから、さっきも言ったでしょ、その夢に出るのが私なの、その私が現実空間に居るんだから、私の夢は見ないはずなの、それって、本当に、私だった?」
「ああ、何回か同じ夢を見たんだ」
「さっき、私が何かを探しているって言ったよね、何を探しているか分かる?」
「知らねーよ、何か探しているようだったから、そう言っただけだよ」
彼女は真剣な顔でしばらく考え込む様な仕草をしていた。
「俺の夢がそんなに重大なのか?」
「とんでもない事が起こってる・・・」
彼女の身体が小刻みに震え始め、滑り台の側面に力無くもたれ掛かった。
「おいっ、大丈夫か」
「やっぱり、あの時に鏡を落としちゃったから、時空が交錯しちゃったんだ、もう、時間がない、早く、ラスプーチンの卵を見つけないと、現実世界を支配されたら、もう、手の打ちようがない」
「なぁ、大丈夫か?」
「うん」
「いや、頭の方」
「そうだよね、大丈夫、そう言っても信じてはもらえないよね、私は頭が可笑しいの、ごめんなさい、もう、帰る」
彼女が自宅へ向かっていく後ろ姿を追った。