第3節
三階にいる藤岡さんは、思ったよりも簡単に見つかった。
自分の病室に帰ってから、どうするかをさんざん考えた結果、有志はやはり『救い』の正体を見てみたいと思った。それがどういうものなのかも、見てみないことには分からない。もしも求めているものと違うようなら、諦めればいい。それだけだ。
藤岡さんは、痩せて背の低い男性だった。もう老人と呼んでいいぐらいの見た目で、顔には深い皺が刻まれていた。どこか生気が薄いような印象を受けるのは、やはり『退院』が近いせいだろうか。
それでも、他の病室から仲間が遊びに来た時は楽しそうに話をしていた。
問題なのは、彼がいつ『救い』を求めるのかということである。
有志の病室は二階である。見張る時間は確かにあるけれど、さすがに四六時中というわけにはいかない。点滴を受けたり、食事、様態の確認などで看護師さんが見回りに来るのだ。頻繁に抜け出していることが知られれば、目を付けられて自由に動けなくなるかもしれない。
そういう事情を考慮した結果、朝と昼、夕方に分けて一時間ずつ見張ることにした。
病室前のベンチや、待ち合い室で気付かれないように様子を伺う。それでも何をしているのかを聞かれることはあったけれど、てきとうな言い訳を並べればそれほど気にされることはなかった。
一日、二日、三日。とくに変化の無いまま時間が過ぎていく。
そうやって、一週間が過ぎたある日、ついに藤岡さんに動きがあった。
晩御飯の配膳が済んでから様子を見に行くと、ちょうど病室を抜け出してどこかに向かおうとしていた。普段なら、そのまま夜まで出ていくことはない。有志は、距離を十分に取って後をついて行った。
階段を降りて、二階へと向かう。有志の入院している集団病室の前を通り過ぎて、一番西側にある個人病室の前で藤岡さんは足を止めた。しばらく、入口の前から動かない。どこか真剣な表情のまま、意を決したように扉を二度ノックしてから、なかに入っていった。
扉が閉まってから、有志も出来るだけ足音を立てないように扉の前に向かった。ルームプレートには「萩原玲子」と書かれている。
ここに『救い』があるのだろうか。有志は悩んだ。
これが本当に手がかりなら、問題はない。けれど、ここまできて、ひょっとしたら友達に会いに来ただけじゃないかという考えが頭をよぎった。高校生にもなって、探偵ごっこに精を出す自分というものが、途端に恥ずかしくなってくる。これでもしも何もなかった上に、ここにいることがバレてしまったら、面倒なことになるかもしれない。
有志は、度胸のない自分が何だか嫌になった。
結局、それからも色々と悪い想像をいくつか浮かべた後、いまさら引き返す気にもなれず、周囲に誰もいないことを念入りに確かめてから扉を少しだけ開けてなかをのぞいた。
隙間から見える室内は、ひどく殺風景だった。
どこの病室でも置かれている銀色のラックと丸い椅子以外は、何もなかった。
カーテンの敷かれていない窓からは、夕暮れの光が注いでいる。その近くにあるベッドの前に藤岡さんは立っていた。逆光でシルエットになっていてよく分からないけれど、どうやらそこにいる誰かと話をしいるようだ。
有志は、視線を外さないようにしながら耳をすませた。
「・・・・・・おなじ病室にいた奴から、聞いてきたんだ」
かすれた声で、藤岡さんは言った。
「お前で、間違いないんだろうか」
「――――」
藤岡さんの言葉に続いて、誰かが話した。内容は聞こえなかったけれど、澄んだ高い声。藤岡さんが影になって見えないけれど、自分と変わらないくらいの女の子が出すような声だった。
「ああ、それでもいい。俺はもう駄目だ。もうじき死ぬんだろうが、それを苦しみながら待つのは怖い。とてもじゃないが、耐えられないんだ」
嗚咽の混じった、すがるような声で藤岡さんは懇願した。
――だから、頼む。どうか俺を『救って』くれ。
有志は、耳の奥がじんじんと鳴っているのを感じた。背中を中心に熱が込もる。
やっぱり間違いない。藤岡さんの対峙している相手こそが、隠された『救い』なのだ。
「――――」
澄んだ声がまた何かを言うと、藤岡さんの肩に何かが回された。
枯れ枝のように細い指先、触れれば折れてしまいそうな細い腕だった。
「・・・・・・ありがとう」
かすれた声で藤岡さんは言った。しばらく、何も起こらずに沈黙が続いた。有志はもはや周りを気にすることもなく、これから起こるだろう出来事を固唾を飲んで待ち構えていた。
そして、数秒ほど経ってから、ある違和感を有志は感じる。
ただ抱きしめられているように見えた藤岡さんが、どう言えばいいのか、違うのだ、先ほどまでと何かが確かに違う。窓から差し込むオレンジ色の光が、身体を通して見えているような。
「・・・・・・ああ、ありがとう」
藤岡さんは、またその言葉を繰り返した。
今度は涙声ではない、とても安らかな声だった。
そうしている間にも、有志の側から見える光は強さを増している。信じられないことだけれど、藤岡さんは徐々に透けているようだった。景色と同化するように、透明に近づいていく。
手も、髪も、着ている服さえも。
有志はあまりに非現実な出来事に、悲鳴が喉を通るのを寸前で押さえ込んだ。
どうしてこんなことが起こるのか、頭のなかは完全に混乱していた。できることは、ただ成り行きを見守ることだけである。そして、もはやプールに落とした一滴の絵の具ほどの濃さも持たない藤岡さんを通して、有志はその原因である存在をはっきりと目撃した。
そこにいたのは、やはり女の子だった。歳も有志とそんなに変わらないだろう。太陽を知らないような、真っ白を通り越して青みがかって見える肌。敷布団に垂らされた長い黒髪に、ベージュ地に紅葉柄のパジャマ。何よりも淡く発光するような緑色の瞳が印象的だった。
この世のものとは思えない彼女は、その真っ赤な唇を藤岡さんの首すじに当てていた。
いや、ただ当てているわけじゃない。口元にのぞく八重歯が、軽く食い込んでいる。喉はまるで何かを飲み込むように動いていた。有志は、痺れたままの頭の片すみで、テレビや漫画で見た吸血鬼が人間の血を吸う姿を想像した。
そうしているうちに、気付けば藤岡さんの姿はもはや、どこにもなかった。まるで最初から存在していなかったように、彼の存在を証明できるものは消え去っていた。
女の子は、ゆっくりとした動作で姿勢を直した。乱れた髪の毛を指で梳かしながら、ベッドの枕に頭を預けて掛け布団を膝にかけ直す。どこか紅潮した頬と、浅く吐くような息遣いが、こんな時だというのにひどく官能的に有志には見えた。
本当なら、すぐに踵を返して逃げ出すのが当然だろう。
けれど、どういうわけか有志はそれができなかった。どうしてできないのかは有志自身にも分からない。けれど、身体がどうしてもそれを拒否していた。
彼女と藤岡さんが抱き合っていた時と同じ、静寂が流れる。
すると、女の子は何の前触れもなく、まっすぐ有志に向けて視線を送った。
「いつまでそうしているつもりかな」
はっきりとそう言った。
「のぞきなんて悪趣味なことはやめて、なかに入ってきたらどうだ」
有志は、その言葉に冷や汗が流れた。心臓を握り締められたように、胸が苦しい。相手は完全に有志の存在に気付いていた、おそらく、最初から。
「悪いが、動けないんだ。君の方から来てくれないと困る」
早くと急かす言葉に従うように、有志は扉を開けてなかに入った。
しばらく、何も言わずに女の子は有志を見つめた。緑色の双眸は、まるで何もかも見透かそうとしているようで、有志は怖いような恥ずかしいような感覚を味わっていた。
「・・・・・・若いな」
女の子はそう言った。
「院長のやつが言っていた新しく入った男の子とは、ひょっとして君のことかな」
「・・・・・・多分、そうだと思います」
有志は、慎重に言葉を選びながら答えた。
先ほどの光景を目の当たりにしたせいか、返答を間違えれば襲いかかられるのではないかという不安が、頭のなかで渦巻いていた。
「それじゃあ、ひとつだけ教えてくれないか。なんで、その新しく入ってきた君は、こんな場所でのぞき行為をはたらいていたんだ」
ひょっとして、そういう趣味なのかと女の子は訝しんだ。
有志は、首を横に振りながら、違いますとすぐに否定する。
「・・・・・・噂を、確かめに来たんです」
この病院に囁かれる、『救い』に関する噂話について、有志は説明した。
女の子はそれを聞いて、半ば呆れたような顔をする。
「ああ、君も例の噂を聞きつけたのか」
道理で、と、女の子はため息を吐いた。
「院長のやつめ、この前の話はそういうことだったのか」
「院長先生が、僕のことを何か言っていたんですか」
「大したことじゃない、君が私と仲良くしたいらしいと、そう言っていたんだ」
こういうことだったとはと、女の子は面白くもなさそうに笑った。
有志は、それを聞いて思わず質問する。
「それじゃあ。それじゃあ、あなたが『救い』なんですか」
女の子はそれを聞いて、少し考えた後に答えた。
「・・・・・・不本意だが、そう言われている」
女の子は、自身について有志に説明した。
もともと、人間が生まれた頃と同じ時代に、女の子の種族は生まれたらしい。
人間を食料にする生物。人間よりもはるかに強く、はるかに長く生きるその種族は、世界の各地でひっそりと生きてきた。様々な神話や伝説に出てくる人を食らう化物や神様は、たいていはそれを誇張したものだということ。
そして、女の子は自分がその末裔なのだと有志に説明した。
「こんな見た目だが、私はもう何十年もここで世話になっている。その間に病気の苦しみに耐えられない人間を気まぐれに食べていたら、こんな噂が流れはじめたんだ」
それが君の言う『救い』の正体だと、女の子は言った。
有志は、それを聞いて奇妙な感覚に襲われた。
確かに、探していた『救い』は見つかった。けれど、こういうものではなかったという思いが胸のなかにはある。しかし、逆説的にはなるけれども、そもそも自分が探していた『救い』とは何だったのだろうか。想像していたものと違っていたなら諦めればいいと考えていたのに、いざ見つかってから望んでいたものの正体がつかめなかった。
一体、どういう『救い』を求めていたのだろう。
「・・・・・・すまないな」
思考の行き場を無くしていた有志に、女の子はそう言った。
「真実がこんなもので、君をずいぶん失望させてしまったようだ」
そう言って、申し訳なさそうに目を伏せる。
すっかり勘違いされて、有志は滅入ってしまった。違うと伝えたかったけれど、動揺してうまく言葉が出てこなかった。
「悪いが、もう帰ってくれないだろうか。ひどく疲れているんだ」
そういう女の子の言葉には、はっきりと拒絶の意味が含まれていた。
有志はそれを聞いてもはや何も言えなくなり、部屋に入った時と同じように、言われるままに出て行った。
廊下は電気が消されていて、気付いたら窓の外は真っ暗になっていた。
見回りの看護師さんに見つからないように、自分の病室のベッドにもぐり込む。
しばらくは寝付けずに、今日起きたことばかりを思い出していた。
あの女の子、萩原玲子は、人を食らう。今頃、彼女は何を考えているのだろう。
有志が想像もつかない昔から、ずっと誰かに頼まれてあんなことを繰り返してきたのだろうか。あの綺麗な緑色の目は、どれくらいの人の死を見つめてきたのだろうか。
そして、最後に見せたあの表情は――。
そこまで考えた後、まぶたは重くなり。
有志はそのまま、眠りについていた。