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夜空に色とりどりの光の花が連続で打ち上げられる。
「綺麗ねー」
私はワイングラスを片手に頭上に広がる花火を見上げる。
この花火はどこぞの地方自治体の主催の花火大会ではない。
静蘭女子大学で前期授業が総べて終わった後の締めくくりとして、開かれたガーデンパーティで打ち上げた花火だった。さすがはお嬢様大学だ。お金の使い方がすごく派手。
花火を楽しんでいた私の耳に聞きなれたブザー音が鳴り響く。
ブーブーブーブー。
『緊急クエスト発生!花火から身を守れ!』
目の前の空間にシステム表示が点滅する。
「お嬢様、失礼します」
私の隣に並んでじっと花火を見つめていた執事の黒崎が、突然の腕をつかんだ。あっという間に私を抱き上げその場から建物の中に向かって走る。
「え?なに?緊急クエスト?」
私は彼の腕の中から空を見上げる。
今打ち上がったはずの花火が綺麗に花を咲かせないまま、すごい速度で地上に落下してくる。
落下場所はさっきまで私が立っていたところだ。地面に落下すると火薬がそこで爆発し大きな火柱が立つ。
「「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」」
火薬が落下した近くにいたお嬢様達が悲鳴をあげ、それぞれの執事がお嬢様を連れてその場を離れる。
「消火だ!急げ!」
大学の事務方の人々が念のために用意していた消火器を、火元に向かって発射する。
火勢が強いのですぐには消えない。
パンパカパーン!パンパカパーン!
頭の中でファンファーレが鳴る。
その音で茫然としていた私ははっと我に返る。
『緊急クエスト達成! 取得経験値 218』
『カルマLvが4に上がりました。』
私は執事の腕からゆっくりと降りて、まだ消えない火を茫然と眺めた。
相変わらずピンポイントで、他の人には被害は出ていない。もしあのままあそこにいたら、見事な焼死体ができるほどの火力だった。ぶるりと私は体を震わせる。
「帰りましょう。お嬢様。パーティはおしまいです」
穏やかな声で彼は私に話しかける。
私はただ黙って頷く。
闇の中でひときわ彼の金色の髪が輝いていた。
私の名前は高梨由真。
この「アナザーワールド」というゲームの中では凰華・R・スペンサー・紗枝木という女子大生の人生を歩んでいる。
「アナザーワールド」は人生体験ゲーム。このゲーム内で与えられたキャラクターの人生を送る。
凰華は華奢な美少女で、大金持ちのお嬢様だ。今まで体験したことがないゴージャスな生活を送っている。一緒のゲームをしている友人は農家の長女としての人生を送っている。
それに比べたらとてもよい設定であると思う。
だけど問題は凰華が生まれつき持っているスキルだった。
不運Lv3。
Lv3がどのくらいのレベルなのかわからないけど、不運で事故死する確率が異様に高いマイナススキルだ。
「この前の緊急クエストからまだ一週間も経っていないのよ。ひどすぎると思わない?不運Lv3ってどんだけなのよ……」
家に向かって走る車の中で、私は愚痴をこぼす。
「逃げる隙は十分にあった。不運のLvがもっと高ければ逃げ出す暇もないだろうな」
運転席からぶっきらぼうな声が返ってくる。
人前では非の打ち所がない完璧な執事を演じている黒崎奏は、2人っきりになるとがらりと柄が悪くなる。どうやら素の自分に戻っているようだ。ゲーム初日にその二面性を知った私はあまり気にはしていない。
「でもちょっとでも逃げるのが遅ければ死んでるんだよ?」
「俺が死なせないから大丈夫だ」
彼の言葉に私は眉を顰める。何度も彼から聞いた言葉だった。
はじめは襲い掛かる死から華麗にお嬢様を守る美形の執事から「守ってやる」だの「死なせない」と言われ私は柄になく舞い上がっていた。
だけど次の一言で幻想が打ち砕かれた。
「お前の近くにいると緊急クエストが多い。レベルが早く上がる」
うん、確かにね。多いよ、緊急クエスト。
私もゲームをきちんと始めてこの世界で二週間が過ぎたころには、カルマLvが3に上がっていた。今日の緊急クエストでLv4だ。
正直Lvがあがってうれしいとは全く思えない。毎回死にそうな目にあっているのだ。
「不満そうだな。現実の世界に不運を持ち込むよりも、こちらのが安全なのはわかってるんだろうな?」
黙り込んだ私に彼はバックミラーをちらりと覗き私の様子を窺う。
「わかってるよ」
本当かどうだかわからないけど、ゲームを長期間ログインしないかゲームから脱退すると、その時点でのキャラクターのマイナススキルが現実の自分に実装される。
凰華を使うプレイヤーは私で3人目だそうだ。2人ともゲームを脱退したあと不運な死にかたをしている。暴走自動車に引かれて死亡。鉄骨直撃で圧死で死亡。
私も一カ月間ログインしなかったときに、学食で不審人物に襲われ包丁で刺されるところだった。
それを助けてくれたのが執事-黒崎奏-のプレイヤーだった。
現実とこのゲーム世界との因果関係は何なのか?彼はこのゲームの謎を解きたいらしい。
途中脱退するとマイナススキルが現実へと持ち越されるというならば、キャラクターを死亡させてゲームを辞めることも考えた。だけどキャラクターが死亡後、半年の間新キャラクターに乗り換えることができない。その半年間、不運がリアルの私について回らないとは限らないのだ。
「お嬢様、着きました」
彼は静かに車を止めると、車をおりて後部座席のドアを開ける。
私は差し出された彼の手を掴み、車からゆっくりと降りる。
玄関先には初老の家令と数人のメイドが「お帰りなさいませ、お嬢様」と丁寧なお辞儀をして出迎える。
ゲームを始めたころは私も相手にお辞儀しそうになったのだが、今は少し慣れたので「ただいま」とだけ告げて玄関ホールの中に入っていく。
玄関ホールは吹き抜けになっており、天井には透明のガラスから夜空が見える。ホールから2階へと続くゆるやかなカーブを描く木製の階段を私は上がっていく。
「お兄様は?」
私の後を一歩ほど離れて歩く、専属執事ではなく家令に向かって私は尋ねる。
「まだ戻られておりません」
「そう。夕食は食べてきたから、今日は下がってもらって結構です」
「畏まりました」
彼は丁寧にお辞儀をすると一階へと戻っていく。私はそのまままっすぐに自分の部屋に戻る。
「はぁー、疲れた!」
私は自分の部屋に入ると手前にあるソファに座り込む。執事がいうにはこの屋敷の中の人は全てプレイヤーではないそうだ。お嬢様らしくせねばと気を使うので、おかげで気が張ってしょうがない。
黒崎は部屋に入ると早速コーヒーを淹れる。私の部屋は小さなミニダイニングがついている。
寝室、応接室、ミニダイニング、ドレッサールーム、お風呂とトイレ、そして黒崎の部屋。「私の部屋」と一言で言い切るにはかなり広い。テレビで見たことがあるホテルのスィートルームよりも広いだろう。
というか、服や靴、帽子だけが置いてある部屋とかどうなの?その一室だけでリアルのマンションの全部屋足した広さと同じなんだけど。
ひきたてのコーヒーとソーサーに小さな1粒のチョコレートを添えたものを黒崎はテーブルに置く。
カップは2客。本来は使用人である彼は私と一緒にお茶など飲まないが、二人きりになるこの空間では別だった。
「やっと試験が終わってほっとしたよ。ゲームの中でも試験やらされるってひどいよねぇ」
私は淹れてもらったコーヒーを手にとり、香りを嗅ぎながら愚痴る。
「そういえば、現実でもそろそろ試験期間だな」
彼は私の正面に座ると、自分が淹れたコーヒーを手にとる。
「そうなんだよ。こっちが終わればあっちが始まる。学生はつらいよ」
「ログインはどうするんだ?数日くらいなら入らなくても大丈夫そうだが」
「ん。一応毎日1時間くらいはログインするよ」
私はコーヒーカップをソーサーに戻しながら答える。正直大学で襲われたことが少々トラウマになっているのだ。多少入らないでも大丈夫なのかもしれないが、保険としてログインしておきたい。
「そういえばさっきレベルが上がったんだった」
私はメニュー画面を開き、スキル欄を見る。
・不運Lv3
・体力Lv1
・移動速度向上Lv1
すでに割り振られているスキルは3つ。
基本、危険な目に合うので新たに取得可能なスキルは逃げ出すことをメインに取得している。
私がとても欲しいスキルは「幸運」だけど、今回も取得可能スキル一覧にその名称はない。
「視力強化Lv1、嗅覚強化Lv1、聴覚強化Lv1、毒耐性Lv1、手当Lv1。この辺りがいいのかな。全部Lv1ばっかりだね」
他に乗っているのは知力Lv1、腕力Lv1、記憶力Lv1だ。
普通のゲームなら除外したスキルのほうから選ぶんだけど、とにかく不運な事故から身を守る方が先決だった。
「Lv2が出てくるのはカルマLv10以降だ」
「そうなんだ。ところであなたはLvいくつなの?」
チョコレートを口に放り込み咀嚼している彼にに尋ねる。
彼は黙り込んだ。組んでいた長い脚をほどき、自分のコーヒーカップをキッチンに向かって運んでいく。
どうやら黙秘されたようだ。
少なくともLv10よりは上なんだろうなと、私はカップに残ったコーヒーを飲み干す。
とりあえず今回のスキルは手当Lv1を選ぶ。
毒耐性とどちらにするか悩んだけど、ケガをしたときにはこちらのほうがいいだろうと思ったからだった。
私も自分の分のコーヒーカップとソーサーをもってミニキッチンに置きに行く。彼がそれを受け取り、後片付けを始める。
そろそろテスト勉強に力を入れなければならない。
「今日はもうログアウトするね」
「わかった」
私は彼にそう告げメインメニューからログアウトを選んだ。
「あっ」
私は引き当ててしまった当たりくじを見て茫然と固まる。
「凰華さんに決まりですね。あいかわらずくじに弱いですこと」
東条春香嬢がちらりとこちらを見て笑う。
その顔はあきらかに「ざまーみろ!」と顔に書かれた文字が見えてきそうだった。
「凰華様大丈夫ですか?」
心配そうに綾小路瑞穂さんが私に向かって尋ねる。
「くじで決まったのでしょうがないです。不慣れですが頑張ります」
私は心の中で自分のバッシブスキルに悪態をついていたが、それをおくびにも見せないようににっこりと瑞穂さんに向かって微笑む。
現実のテストが終わり、私は久々にゆっくりと「アナザーワールード」で時間を過ごしていた。
こちらの世界でも現在夏休み中だ。
凰華は友人の綾小路瑞穂嬢に誘われて、那須高原で余暇を楽しんでいるところだった。
お金持ちのお嬢様がなぜに那須高原?海外じゃないの?と思うのだが、海外まで移動で使う飛行機や船に難点があった。飛行機の中で不運に見舞われたら最悪だ。どこにも逃げ場がないのだ。船でも沈没したら怖い。
かといってせっかくの夏休みだ。家から一歩もでないのはもったいない。
綾小路瑞穂嬢の父親が新たに那須高原にリゾートホテルを建てたのだ。ホテルだけではない、牧場や遊園地、プール、ゴルフ場などスポーツ施設を含んだ大規模なレジャーランドも併設した。そのオープンパーティに私は呼ばれたのだった。
招待客が1000名にも及ぶ、豪華なセレモニーパーティは昨日終わり、今日は招待客がレジャーランドを体験することになっていた。
一日で全部回ることなどできない大規模なレジャーランドだ。
ホテルオーナーである綾小路氏は娘が連れてきた静蘭女子大学の友人たちに1つお願いをしてきたのだ。
「若いお嬢様方が我が社施設を利用してくださるだけで華になります。できれば初日は各施設を分かれて体験していただけないでしょうか?」
キャンペーンガールとなにか勘違いしてない?おじさん。
私は表面上にこやかに微笑んでいたが、心の中で綾小路氏に悪態をつく。
確かにここにいる静蘭女子大学のご学友一同は全員スタイルがよくて、華がある目立った集団である。
まぁ美貌にお金をかけている額が違うともいうが。
ちなみに凰華の2代目はかなりエステに通っていたらしい。私は一回も行ってないけどね。そろそろ行けと執事にせっつかれているところだ。うるさいので、このホテルでのエステコースを申し込んでおいた。予約時間は夕方からだ。
「ただ施設を利用するだけというのであれば構いませんわ」
東条春香嬢が代表して答える。
「もちろんです。お嬢様方を第一優先で施設を使えるように手配します」
自分が作った施設に自信があるのだろう。綾小路のおじさまは喜んで頷いた。
「さて、誰がどこに行くのか決めませんこと?」
東条春香嬢はくるりと振り返り、私たちの顔をみてにっこりと微笑む。
私たちは全員で5人。施設はレジャーランド、ゴルフ場、牧場、プール、水族館。
「各自行きたい場所をまずはおっしゃってくださる?」
東条春香嬢は、リーダー的な存在でオシャレ自慢の女性だ。意外と面倒見がよく、物おじしない性格だった。
だけど、なんでか凰華にライバル意識を持っているらしい。
執事がいうには2代目がかなり高飛車な凰華だったようで、結構東条春香嬢とよくやり合っていたらしいのだ。ほんと余計なことをしてくれる。
「凰華様はどこがいいですか?」
どうやら私だけが答えてなかったようだ。
正直どこがいいといわれれば、プールかレジャーランドだけど不運が一番起きやすい場所でもある。
水族館が無難かなぁ。
「水族館に行ってみたいと思います」
私がそう答えると、東条春香嬢はふぅと軽く溜息をつく。どうやら誰かとかぶっていたらしい。
「牧場が人気がないですわね」
それはそうだろう。お嬢様は好んで牧場に行きたがるとは思えない。
「牧場では乗馬ができますよ」
綾小路氏はにこにこしながらいかにもお嬢様がすきそうなことを告げる。だが静蘭女子大のメンバーはあまり乗馬に興味がなかったようだ。
「凰華さんは乗馬経験は?」
東条春香嬢がちらりと私をみて尋ねる。
「あまりないです。馬は苦手なので」
正直馬にのって間違って落馬などしたくないので、拒否する。
「くじ引きにしましょう」
東条春香嬢はそういうと自分の執事に紙とペンを持ってくるように指示する。
別に無理やり分かれて施設を回るほどのことではないと思うんだけど。
意外と東条春香嬢は真面目である。
彼女は自分の手にもったポーチの中身を近くのテーブルの上に取り出し、執事に作らせたくじを中に入れる。
「さぁ引いてください」
私は一番最初に彼女のポーチの中に手をいれた。不運スキルを持っている私が一番当たりをひきやすい。
せめて外れくじの確率が一番高いときにひくべきだと思ったのだ。
「あっ」
私は引き当ててしまった当たりくじを見て茫然と固まる。
「凰華さんに決まりですね。あいかわらずくじに弱いですこと」
東条春香嬢がちらりとこちらを見て笑う。
その顔はあきらかに「ざまーみろ!」と顔に書かれた文字が見えてきそうだった。
東条春香嬢は私が当たりをひくと最初からわかっていたのだ。
2代目!いったいあなたはどんなことをしたのよ!私はこころの中で叫んだ。
「本当に乗馬しなきゃいけないの?」
できすぎた執事がさっそく用意した乗馬服に着替えながら、ぶつぶつ文句をいう。
「主催者が異様に乗り気です。確かにお嬢様は絵になりますからね。格好の宣伝です」
扉越しに黒崎が答える。
私は着替え終わると、扉を開けそこに立っている金髪美形を見上げる。
「どちらかというとあなたが乗ったほうが、宣伝になりそうなきがするんだけど」
彼は切れ長の青い瞳で私を見おろし、服装をチェックする。
赤いジャケットに白いパンツ。茶のレザーのブーツに赤い帽子。
「お嬢様でも十分な宣伝になりますよ。いつ落ちてもいいように対応しますから安心してください」
いつ落ちてもって……不吉な。私は顔をしかめ、渡された乗馬用の鞭を受け取る。
私自身は乗馬経験がないが、凰華には乗馬経験がある。受け取った鞭をどう使えばいいのかが記憶として流れ出てくる。
牧場に着くとさっそく施設の担当者が私に乗馬を勧めてくる。私は仕方なく、黒崎の手を借りて白馬にまたがる。
お嬢様達には不人気であった牧場の入りはまずまずだった。今日から一般公開もされているので親子連れが結構遊びにきている。
「あ、あのお姉ちゃんかっこいいね!」
小さい女の子がこちらを見ててを振ってくる。
私も手を振り返そうと思ったが両手は落馬しないようにしっかりと手綱を握っているので、にっこりと女の子に向かって微笑むだけ。
私と黒崎は牧場の中で大注目を浴びていた。白馬にのった華奢な美少女と馬の轡を掴み、それに付き従う長身の金髪の美形。牧場の柵のまわりに観光客が押し寄せ、こっちを見ている。中には携帯で写真をとっている人も結構いる。
こんなに注目されたのは2回目だ。
一回目は現実世界で学食で変な人に襲われたとき。でもあの時は恐怖で回りの視線など気にしていられなかった。今は違う。なにかへまをやりそうで、緊張で手に汗をかく。
あと牧場のまわりを半周を回ればこの見世物は終わりだった。
観客もまばらになったところで私は軽く息を吐く。緊張しすぎて体がガチガチになっていたのだ。
そんなときだった。いつもの警告音が流れたのが。
ブーブーブーブー。
『緊急クエスト発生!牛から身を守れ!』
「へ?牛?馬じゃないの?」
私が意味がわからず、気が抜けたようにそう言った瞬間、厩舎のほうから牛の大群がこちらに向かって走ってくる。牛の目が血走っている。濛々と白煙を上げてドドドドドと牛たちが疾走してくる。
「なんで!」
「お嬢様しっかり手綱を握ってください!」
黒崎は轡から手をはなし鞍に手をおいて私の後ろに飛び乗ってきた。すぐに私の手から手綱を奪い取り、馬の腹を強く蹴る。彼は馬の方向をかえ、厩舎と反対側の柵のほうに向かって馬を駆る。
私は必死に馬の鬣を掴む。
「はっ!」
彼は見事に馬をジャンプさせ柵を乗り越え走り続ける。だが牛たちはそのまま、柵に突っ込み力任せに柵を破壊して後を追ってくる。
「なんだ?一体なにがおきているんだ」
牧場の責任者は走り去る牛を茫然と見つめていた。
観光客のほうは事故だとは思っていないようだ。アトラクションのなにかだと思って、逃げ回る馬にむかって声援を送る。そりゃそうだ。牛が特定の人物だけ襲うのなどありえないのだ。
すでに私のかぶっていた帽子は脱げ落ちている。その帽子に数頭の牛が群がり、帽子を攻撃している。
彼は馬を真っ直ぐではなく、方向を変えながら走らせていく。
「なにやら牛は興奮しているようです。紅い服目がけてやってきているようですね。お嬢様、上着脱げますか?」
「む、無理」
凄まじい勢いで走る馬にしがみついているだけで精一杯だった。とても手を離せる状況ではない。
結局、それから2時間ほど暴走牛が走りつかれるまで、追いかけっこは続いた。最後の牛が倒れると同時に例のファンファーレが頭の中で鳴り響く。
パンパカパーン!パンパカパーン!
『緊急クエスト達成! 取得経験値 334』
『カルマLvが5に上がりました』
牧場スタッフは牧場のあちこちで倒れた牛たちをどうしたらいいのか対処に困っていた。
正直私には知ったこっちゃない。
長時間馬にまたがってお尻が痛いのだ。
私は馬から降りると黒崎に支えられる。一人で立っていることすらできない。お尻に手を当て「手当」スキルを発動させる。じんわりと痛みが和らいでいく。
「申し訳ございません」
牧場担当者が私と黒崎に向かって頭を下げる。
「原因はなにかわかったのですか?」
じろりと黒崎が担当者をアイスブルーの瞳で厳しく射抜く。
「はっきりとは……なにか興奮剤のようなものを口にしたのではないかと。お客様の赤い服に興奮して追いかけたのではないかと推測しています」
結局原因不明か。
私はガクガクする膝にも手当をかけて、ようやく一人で立てるようになる。
「もういいよ。とりあえず疲れたから帰りたい」
「畏まりました。車を回してまいります。こちらで座ってお待ちください」
私はベンチに座ると、暴走後の牧場を見回す。
ところどころに小山のような牛が倒れている。あれを運ぶのは大変だろう。
たぶん元凶となった赤い上着を脱ぎ、じっとそれを見つめる。
赤なんか着なきゃよかった。
その上着からかすかにムスクの匂いがする。
黒崎の匂いだ。
私は上着に鼻をあて、くんとその匂いを嗅ぐ。
現実でも香水なんかつけているんだろうか。
印象的な黒曜石の瞳を思い出す。
現実でも美形ってなんか不条理だよね。
「お嬢様、お待たせしました」
ぼおっと中学生くらいの現実の黒崎の顔を思い出していたので、突然声をかけられて私はびくりとする。
別になんかやましいことがあるわけではないんだけど、見透かすような青い瞳をみて、私は慌てて車に乗り込んだ。
「夕方からはエステの予約がありますから、忘れないでくださいね」
彼は私にそう声をかけると車を発進させた。
ホテルに戻りエステで全身リラックスした後、夕飯の席で綾小路親子にそろって頭を下げられた。無事だったから特に気にしていないと、泣きだしそうな瑞穂嬢に向かって微笑む。
彼女は素直で可愛らしい女の子だ。彼女を悲しませたくなかった。
次の日。ホテルから家に戻る車の中で、私は黒崎に話しかける。
「今日はもうログアウトするね」
「わかった」
いつものやりとりをして私はログアウトする。
頭からヴァーチャルギアを取り外すと、現実の世界ではそろそろお昼の時間だった。
向うの世界でたくさんおいしいものを食べても現実では別腹。おなかがすく。
冷蔵庫の中のものを適当に炒め昼食を作る。
「速達です。現金書留なので判子をお願いします」
お昼ご飯を食べていると、部屋のドアがノックされた。
私は判子をもって、速達を受け取る。
「誰だろう」
いまどき現金書留なんて送ってくる人がいるんだ。でも心当たりはない。
私は封筒の送り元を確認する。そこには住所がなく「アナザーワールド」とだけ記載されていた。
封をあけると、そこには千円札が一枚入っていた。