人間のいのち
今日は会社の同僚と酒を呑んでいる。
なかなかない機会だが、だからこそ私は付き合うことにした。
酒もあまり必要とされなくなった。人形は酒を呑んでも酔わないし、へべれけになった自分の醜態を彼女たちに見られることを忌避する人間も少なくないからだ。結果、どんどんアルコール飲料の需要は低下していった。しかし、完全になくなってしまったわけではない。人間同士で呑めば、それは意味のあるものだからだ。雀の涙ほどの需要ではあるが、求められていないということはないのである。
私と友人はオフィスの中にある食堂を借りて静かに呑んでいた。完全にマナー違反ではあるが、食堂には誰もいないし、いたところで文句を言われることもないだろう。皆、他人に無関心なのである。
「なあ、お前んとこの人形は元気にしてるか?」
友人が口を開いた。酒の所為か少し舌が重苦しい感じだ。
「元気だよ。昨日、整備もしたしね」
「そうか。何よりだな」
会話は短い。それはそうだ。友人だって関心があって訊いたわけではないのだろうから。ただちょっと場つなぎ的に口にしてみただけなのだと思う。私も挨拶程度に何か言っておこう。
「君んとこの人形は? 確か――凛ちゃんって言ったっけ?」
「ううん。ちょっと元気がないかな」
「そうなのか? ちゃんと整備してないからじゃ?」
「いいや。整備はちゃんとしてるんだよ。でも何だか具合が悪そうでさ。僕も最近、あんまり体の調子が芳しくないから、共倒れにならないか心配だ」
どうやら口ごもりながら話しているのは、体調が優れないからであるらしい。
「それじゃあここで酒なんか呑んでる場合じゃないだろ。帰って休みなよ」
「いや、いいんだ。何か病気っぽいしな。こんなご時世だ。医者もやってない。僕はそろそろ死ぬかもしれない。だから最期にお前を酒に誘ったわけだ。人形が人間の生活に溶け込んでからも付き合いを続けた人間はお前だけだしな」
とんでもないカミングアウトをされたものだ。どう言葉を返していいのやら。私が応えに窮していると、友人は赤い顔を青ざめさせて、心配ないよと笑ってみせた。
「とは言え、気がかりなこともある」
彼は笑顔を消し、神妙な顔つきで続けた。
「僕らは幸せに死ねる。人形がいるからな。これは覆しようのない真実だ。しかし、人形はどうだろう。彼女たちは幸せに死ねるのか。それが僕の気がかりだ。お前だって同じようなことを考えたことくらいはあるだろう?」
私は頷いた。丁度、昨日考えたことである。
「私は千枝を不幸にはしたくない」
「僕だって凛を不幸にはしたくない。しかし、彼女たちが不幸になるのは避けられない。だって彼女たちはとても義理堅いから。私たちの死は彼女たちを確実に不幸へと堕とすことになる」
ゾッとした。心臓が引っ繰り返ってしまいそうだ。
「私たちはどうすればいいのだろう」
「どうすることも出来ないよ。人形の前に人間は無力だ。それは退廃した世界が証明している」
「それを悟って、私たちは幸福に死ねるのだろうか」
「死ねるのだと思うよ、幸福にね。人間は人形と違って身勝手だ。だから僕たちは幸せに死ねる」
それもまた背筋が凍るような話だ。人間は非道だ。私は非道だ。文化と引き換えに人形を手に入れた私たちは道徳まで捨ててしまうのだろうか。
否、それは違うか。こうして罪悪感を募らせているのだから道徳までは捨てていない。道徳は捨てられない。むしろ私たち人間は、人形たちに報いる為にあらゆる悪行や醜態を捨て、道徳を昇華させようとしている。
それでも、完全には至らない。全然駄目だ。私たちに出来ることは彼女たちの不幸を嘆くことだけである。何という無様。これ以上ない醜態。言い返しようのない皮肉。
「僕たちに出来ることは、大人しく死ぬことだけだ。僕は来週から仕事を休むよ。養生しないとな。ま、ただの体調不良だったらそれで善し。そのときは大げさな物言いをした僕を笑ってくれ。そうでなければ、僕のことは忘れてくれ」
友人は笑いながら言った。その笑いは泥のようで、私は彼が死ぬであろうことを確信した。