人形のどう
大きな人形はのそりと体を動かし、古本屋だった頃はスタッフルームであったと思しき部屋へと戻って行った。
私も背を返して工房へ戻った。
丁度、千枝の整備が終わったところであった。
「ああ、アイツに会いましたか。驚きが顔に残ってらっしゃる。いやあ、可愛いヤツでしょう。私は大きいものにしか愛情を注げないし、情欲もそそらないんですよね。ヒヒ」
やはり不気味だ。整備をしているときの彼が素なのだろうか。それとも人と向き合っているときの彼が素なのだろうか。
恐らくどちらも是なのだろう。二つの要素は相互関係として成り立っているに違いない。だとしたら、一層に不気味である。
「ありがとう。お代は?」
私は彼の発言を無視して話を進めた。この整備士はちょっと苦手である。早々にここから立ち去りたい。
「うん? ああ、五百円になります」
やはり安くはないか。
私は財布から金を取り出し、整備士に渡した。
「毎度。これからもご贔屓に」
無理な相談である。今度からは荏原の方の工房を使おうと思っているのだから。
「さあ、行きましょう。腕も髪の毛も綺麗になって、ワタクシ、満足です」
千枝が小さく笑った。まあ、この笑顔を見れば、ここに来た甲斐もあったと思える。一先ずは善しとしよう。
私たちは工房を後にして、街を散策することにした。とは言っても店はほとんど開いていないからちょっとした散歩といった感じである。全く暇なことだ。国が機能していないから仕事もない。仕事がないから金もない。現在存在している職業など食料関係か整備関係くらいなものだ。流通関係もあるにはあるが、正常に機能しているとは言い難い。私も流通会社に勤めてはいるが、経営は杜撰だし仕事も適当だ。社員は薄給で、ほとんどが閑職である。しかも週休五日。閑職もここに極まれり。毎日が夏休みだったらいいのにと小学生の頃夢想した夢がこんな形で実現されるとは思ってもみなかった。全ては人形のおかげである。彼女たちには感謝しなければ。感謝して、彼女たちに報いなければ。
「千枝、君は幸せかい?」
「ええ、トッテモ。ワタクシ、毎日が楽しくってヨ」
「私は君の幸せに貢献出来ているかい?」
「モチロンです。しかし――ワタクシは、ワタクシはどうでしょう。アナタはワタクシと一緒で幸せでしょうか?」
言うまでもないことだ。私は笑顔を作って頷いた。千枝は安心したように笑顔を返してきた。綺麗な笑顔だ。きっと紫陽花もこんな風に笑う。
そんな千枝の笑顔に誘発されたのか、ぱらぱらと雨が降ってきた。厄介だ。傘は持ってきていない。私たちは雨宿りをしようとビルの軒下に入った。大きなビルだ。昔は中に食堂や雑貨店などが入っていた。今では見る影もないが。
私たちはしばらくそこで黙っていた。言葉はなくとも幸せは確かにあった。この幸せは何時まで続くだろう。私が死ぬまでか、それとも千枝が死ぬまでか。そもそも人形の死とは一体どういうものなのか。何がどうなってスクラップの山に積まれるのであろうか。
学者の言う、一人一体説が正しいのだとしたら、きっと彼女たちは人間が死んだときに死ぬのだろうと思う。それは何と残酷で美しいことだろう。私たちは一心同体である。チューブで繋がれ、お互いに栄養を交換しているようなものだ。私たちは幸せだ。しかし、私の死に様を千枝に見せるのは少々気が引ける。彼女はきっとショックを受けるだろう。そのとき、彼女は幸せに死ねるのだろうか。
私は心配になったが、その心配も千枝の一声で何処かへ掻き消えた。
「何か聞こえますね」
耳を澄ませれば、確かに雨音に混じって何かが聞こえる。人の喘ぎ声のようだ。誰かが泣いているのだろうか。
「行ってみましょうか」
千枝が先んじて声を辿りながら移動する。
声の主は少年のように髪の短い人形だった。ビルの西側の入り口の前でうずくまっている。
「どうしたのでしょう?」
「うっ……」
涙を流しながら髪の短い人形は顔を上げた。そうして、また目を伏せて泣き出してしまう。
「アラアラ。そんなに泣いてはいけませんヨ。悲しくなってはいけないのです」
千枝はしばらく彼女を宥めていた。私も加勢するが彼女はなかなか泣き止んでくれない。きっと雷様はこんな風に泣く。
「うっ……実は、胴を失くしてしまったんです。どうすればいいんです? このままじゃ悲しくて死んでしまいますです」
彼女は泣き泣きわけを説明する。
なるほど、どういう事情で胴が失くなってしまったのかは判らないが、彼女が腹部を押さえているのはそういうわけか。
「君、配偶者は?」
「今、必死に探してくれているです。でも、僕は悲しくて動けないんです」
情けないですと言って彼女はまたさめざめと泣き始めてしまった。
「ワタクシたちも探しましょう。このままではいけません」
私は承諾した。胴がなければ痛かろう。私も痛いのは好きではないから、彼女に協力するのに上げる腰は軽かった。
彼女が言うには、胴は北の方へ飛んで行ったらしい。千枝は北東を、私は北西を調べることにした。
誰もいない交番を覗き込む。それらしいものは見当たらない。落とし物として届けられているということもない。まあ、誰もいないのだから当然だろう。警察機構はずいぶん前になくなってしまった。人形の出没によって犯罪率が激減し、遂には誰も罪を犯さなくなったのだ。人形と一緒にいれば不満もなくなるというのだからそれも当然である。
私は念のため、歩道橋も調べてみた。これが正解だった。胴が歩道橋の真ん中に転がっていた。雨で少しばかり濡れてしまっているが、これくらいならば支障もないだろう。
私が西の入り口に戻ると、千枝が髪の短い人形の頭を撫でていた。その隣には十四五歳くらいの少女が千枝にお礼を言いつつ髪の短い人形の背中を優しく叩いていた。
「見つけたよ」
と言うや否や皆が私の方を向いた。配偶者と思しき少女が近付いてきて私に礼を言った。少女は細い目をしていて、如何にも大人しそうな外見をしていた。目だけでなく声も細かったから、私の観察も大外れというわけではなさそうである。
「この子はよく胴をなくすんです。何時もはあまり遠くには飛ばないのですが、今回は大笑が過ぎてしまったようです。何処にありましたか?」
私は歩道橋の上にあったと伝えた。少女は辟易したように溜息を吐くと、改めて礼を言った。
私が胴を少女の手に渡すと、少女は人形の方へ駆け寄って行き、彼女の空白に胴を嵌め込んだ。嵌め込むと同時に、人形は笑顔を取り戻す。
アハハアハハと先刻までの嗚咽が嘘のように笑っている。なるほど、大笑が過ぎるとはこのことか。彼女は笑い上戸であるらしい。
「アハハアハハ。お兄さん、ありがとうございますです。アハアハ。僕はこんな片輪人形だからきっと死んでしまうと思いましたですけれど、今回はまだそのときではなかったようです。アハハアハハ」
正に抱腹絶倒。ゲラゲラと笑いながら道理の通らぬようなことを言う。人形に代わって、少女が話しだした。
「この子は笑う癖があって、何時でも何処でも笑っているんです。ですからあんまりそれが過ぎると胴が外れて片輪になって、死んでしまうのです」
どうも要領を得なかった。私は曖昧に頷く。どうも突っ込んで訊き難い。何だか問い質すと痛い目にあいそうな感じがするからだ。この少女からは底知れないものを感じる。実際、痛い目になんてそうそうあわないはずであるが、この少女は何だか不気味だ。表情の読めないような、笑顔にしても困り顔にしても全部同じ印象を受ける。
「アハハアハハ。大好きアハアハ」
人形が少女に飛びついた。彼女は感情の制御の出来ぬ質であるらしい。なるほど、これはこれで案外相性がいいのかも知れない。
アハアハとアハハアハハと腹の底から笑い、少女を抱きしめる人形。その目には確かに幸福の色が見えていた。