九
韓王信はまず手始めに王黄と曼丘臣に連絡を取り、かつての趙の王家につながる人物を探し出させ、これを王位に就けた。ちなみにこの人物は趙利といい、たしかに趙の王家の子孫にあたるようである。由緒は正しいが、状況から察して傀儡的な意味合いで国も王権も位置づけされたようである。
ともかくも彼はこの趙利という人物を中心に敗残兵を呼び集めさせた。しかしその勢力は脆弱なもので、匈奴の応援を得なければ軍隊としての機能も充分に果たさない。
一万余騎の匈奴兵を加えた王黄と曼丘臣は、晋陽まで南進し、そこで漢軍と戦闘を交えた。結果は漢の大勝利である。漢は彼らを追撃して離石でさらにこれを撃破するに至る。
しかしそれでも彼らは再結集し、少し北の楼煩のあたりで決起した。漢はまたもそれを撃ち破り、追撃を続ける。
漢兵らは勝利に酔い、すべてに主導権を握っていると考え始めた。情報に先んじ、自分たちはその情報を生かしきっている、と信じて疑わなかった。よって、冒頓単于が上谷にいるという情報を得た彼らが、その情報をもとに攻撃計画を練ったということは、自然な流れであった。
やがて漢軍は北進して平城という地にたどり着く。劉邦は自ら兵を率いてこの地にある白登山に登った。高いところから周囲を俯瞰しようとした、ということだろうか。
ところが彼らはあっという間に山ごと包囲された。気が付いたときにはすでに麓は人馬の渦であり、逃げ道は失われていた。冒頓が上谷にいるという情報を鵜呑みにしたがための失態である。実際は、冒頓は上谷ではなく最初から平城にいたのであった。
このときの匈奴軍は四十万で、事実がこの通りであれば彼らはうまく林間などに隠れていたことになる。四十万の人馬がすべて隠れきるとはちょっと信じられないような話だが、それほど匈奴はすばしこく、野戦に長けていたということかもしれない。
いっぽうこれに対する漢軍は三十二万であったという。兵力差は確かにあるがこれも大軍であり、圧倒的不利な条件とは言いがたい。彼らの中に対抗できる知恵を持つ者が誰ひとりとしていなかったことも不思議である。
しかし、ともかく結果は韓王信の思惑どおりになった。季節は冬であり、極寒の中の包囲はまるまる一週間にわたった。漢の兵士の中には凍傷を患い、指を落とす者が全軍の三分の一ほどいたという。
――交渉などするな。捕らえてしまえ。
韓王信はこの場にはいない。長城の北の匈奴の地、その天幕の中で彼は皇帝の死を願った。
それが彼が中原に帰る唯一の道であったからである。




