六
「冒頓は父親の頭曼を殺して単于の位に就いた男です。到底話し合いが通じる男ではありません」
側近たちは口を揃えて反対の意を表明した。韓王信はそれに対して言う。
「しかし、あの兵数を見ろ。ざっと見積もって十万は下らない数だ。我々の軍は、これに対して三万に過ぎぬ。……しかし、彼我の兵力差に怖じ気づいたと思ってくれるな。確かに少数の兵力で匈奴を破ることができれば、朝廷の我々に対する評価は高まるだろう。しかし、事態はそんな悠長な状況ではない。名をあげるための努力をするより、隣の匈奴とどうやって付き合っていくか考えるべきだ。大局を見て行動せねばならぬ」
「では、戦っても勝てないとお考えですか」
「当たり前だ。余は勝てぬ戦いはしたくない。だから争わなくても済む両国の関係を築くつもりだ。……彼らが危険を犯しながら、こうして大挙侵入してくるのはなぜか。彼らの土地には食が少ないからだ。折しも今は秋。中原には収穫物が溢れ、彼らはそれを欲する。だから、くれてやるのだ」
「お言葉ですが……それは屈辱的すぎます」
「耐えろ。武力でかなわないのだから仕方がない。漢の内政が安定するまでの辛抱だ」
「ですが」
「欲しい物を施してやれば彼らは骨抜きになる。その間にこちらは国力を蓄え、兵を鍛錬して養成すれば、逆転は可能だ」
「大局を見る、とはそういうことですか」
「そうだ。むやみに死ぬことを考えてはいかん。無謀に戦って敗れてしまってはどうにもならぬ。馬邑を守るためには……長期的な戦略的思考が必要なのだ」
韓王信は匈奴と和睦すべく使者を送り、事態を打開しようとした。これに関してはいろいろな解釈があり、その多くは彼に批判的なものが多い。しかし自分の領地と領民を守り、なおかつ彼が自分の命を大事に考えたとすれば考えられる行動である。しかも一時の激情に流されることのない、すこぶる冷静な対応であったといえよう。
言葉の壁にぶつかり、文字を持たない相手に意思を伝える難しさを再確認しながら、それでも二、三度と使者を往来させ、おぼろげながら良い結果が期待できそうな頃合いになった。少なくともその間に両者の間の戦闘は止み、緊張も緩和したのである。
だが運の悪いことが起きた。間が悪いと言った方がいいだろうか。漢は冒頓単于が大挙して侵入してきていることを伝え聞き、ちょうどこのときになって馬邑に兵を派遣してきたのである。
「援軍だと? 今さら要らぬ。帰らせろ」
韓王信は吐き捨てるように言った。彼らの存在はせっかくの和平の気運を妨げるものであった。あるいは彼らが登場することで一気に状勢を逆転できるのならまだよいが、見たところそれもあやしい。彼らが加わったところで、たいして戦力の足しになるとは思えなかった。
「彼らの登場が匈奴を刺激する結果になるかもしれぬ。そうなっては今までの努力が、水の泡だ」
韓王信は援軍の漢兵を決して前面に出さず、その存在を匈奴に気付かれぬよう配慮した。当然ながらその様子に漢の兵たちは不信感を抱く。
――どうも、夷狄に使者を送ったりしているようだ。
――韓王は匈奴に土地を売り渡すつもりか?
――それはすこし違う。売るのではない。彼は代価も貰わずに土地を……しかも財物をつけて渡すつもりだ。ただの献上だ。
そういった兵たちのささやき合いがやがて将官の耳に入るに至った。しかし疑念を抱いた将官は直接韓王信に問いただすことはせず、櫟陽の皇帝劉邦のもとに事を告げた。
そして韓王信は劉邦から叱責されることになる。木簡に記された皇帝の書を突きつけられ、彼は嘆息した。
――淮陰侯は鍾離眛を匿っていた事を余人に察知され、密告されたというが……この国はいつもそうだ。小人に足元をすくわれることが多すぎる。