三
韓王信は身の丈が八尺五寸あった。当時の一尺は約二十三センチなので、彼の身長は一メートル九十五センチもあったことになる。その彼が苦労したことは、その目立つ身長のおかげで何ごとにも失敗できないことであった。
心ない人は、彼が物事をうまく進められないでいると、すぐ彼の背の高さを引き合いに出す。
「図体ばかりでかくて、なにも出来ない奴だ」
「あいつは背が高いから遠くのものは見える。しかし、足元はなにも見てない」
自慢の背の高さが、逆にやっかみの種になるのである。その極めつけは、
「奴の背の高さは、一種の病気ではないのか」
というものであった。平民の頃の彼は、そんな陰口を耳にして、時には悩み、時には相手を殴ったり、罵倒したりした。
だから彼は王として君臨して以降、誰もそんな陰口を叩かなくなったことを歓迎していた。
しかし、問題はまだある。彼の背の高さは人々の印象に残りやすく、その結果望まぬ任務につかねばならないことが多々あったのである。
周苛らとともに滎陽の守備に残されたこともあるいはそれが一因としてあったのかもしれない。そして、今回の国替えも、もしかしたらそれが原因なのではないかと疑いたくなるのであった。
「匈奴の侵入に対する防衛のための国替えであったとしたら、言いたくはないが余より適任者は多い。淮陰侯などはそのいい例だろう。彼は、軍事に明るい。戦うために生まれてきたような男だ」
彼は愚痴を言うような口調で言った。側近たちはそれを咎める。
「どうか、勅令にご不満をあらわされないよう、お気をつけ下さいませ。下手をすると不敬罪を適用されます」
「ああ、せいぜい気をつけよう。しかし、どう思う? 余は韓の正統な血脈を保つために日々努力しているが、どうも皇帝はそれをわかってくださらぬように感じる。陛下はひょっとして余を除きたいのであろうか」
「そんなことはございませぬ」
「では、淮陰侯や淮南王(黥布)らをさしおいて、余がこの地に派遣されたという事実はどう捉えるべきか? 彼らは明らかに余より軍事的に能力があるし、実績でもそれを証明している。にもかかわらず選ばれたのが余だということは……陛下が余を除こうと思っていないとすれば……単に背が高いことで印象に残っていただけ、ということであろうか」
「さあ、あるいはそうかもしれませぬ」
「迷惑な話だ」
そう吐き出してみたものの、自分は意外にも過去を忘れていないことに気付く。都合の悪いことは忘れることを旨としてきたつもりなのに、今思いだされるのは自分の背の高さによって苦労したことばかりなのである。
小さいこと、つまらないことと笑ってはいけない。特に古代であるこの時代、人の外見的特徴は我々の想像以上に大きな意味を持つ。現代のように情報を伝達する手段も少なく、統一された教育も施されていない社会では、理想的な人物という概念もない。よって、人は見かけで判断されることが多いのである。
――吾の背の高さで淮陰侯なみの軍事的能力があったら……。
彼は自分の身長が実質的に見かけ倒しであることを嘆いた。身の丈が本質を伴っていたとしたら、今頃は天下に覇を唱えていたのではなかろうか、と。
だが実際は、それほど世間が彼を過小評価していた、ということは無いようである。後の述懐を見ると、劉邦は韓王信の武勇を評価し(警戒したともいえる)て太原に移したらしく、これは充分に彼が諸侯としてあてにされていたことを皮肉にも示しているのであった。
滎陽で生き残ったことが、彼の名を高めたのである。
「……韓王信は戦いにおいて粘り強く、一時の激情に駆られて死を選ぶような男ではない」
淮陰侯韓信が皇帝劉邦相手に残したこの言葉から、彼は確かに、同時代人には一定の評価をなされていたことがわかる。思えばそれも、彼が身の丈に恥じぬ行動をとろうと常に細心の注意を払ってきた結果かもしれない。
「国境付近の防備に専念しろ。胡の侵入があったとしても、我らの側から胡の土地に攻め入ることは許さぬ。穀物も実らぬ痩せた土地を得ても、我らにはひとつの利もない」
このとき韓王信が発した指令は、彼の慎重な性格を象徴したかのようなものであった。