十六
韓王信が率いる軍は、このとき都市としての代の北にある参合という地に駐屯している。そこで得た糧食を食いあさり、食い尽くすとすべてを焼き払って次の城へ向かう算段であった。
彼としては、漢軍をおびき寄せるための行為でもある。必要以上に悪逆な行為を繰り返したのは、地方の城の守備兵などではなく、中央から派遣された官軍と早めに一戦したいという気持ちがあったのだった。
ゆえに参合城の前に集結し始めた漢軍の姿を認めたとき、彼は人知れず安堵の溜息を漏らしたという。
――ようやく来たか。遅すぎるぞ……。
いったい今の今まで何をしていたのか、という思いが彼の頭の中を巡った。危機感が足りなさすぎるとも思ったが、当然ながらこれはおかしな考え方である。危機をもたらしているのが他ならぬ自分であることを忘れているかのようなこの思いは、自分以外の誰にも理解されないものであろう。
「指揮官は誰か」
彼は、周囲に問うた。威厳を見せつけたようなその口ぶりは、内心を見透かされまいとして表現されたものであった。
「旗印などから判断すると、柴武将軍のようであります」
「柴武……そうか」
――まずまずといったところの将だ。
本音を言えば、皇帝自身に出向いて来てもらいたい。そうでなければ樊噲や灌嬰。より中枢に近い人物と戦って勝つ機会が得られれば、彼としては申し分なかった。しかし柴武が出て来たということは、彼らが陳豨の方に向かったということかもしれないし、意外にもまだ長安で待機している、ということかもしれない。
――危機感が足らぬ。
再び彼は思った。陳豨の方に向かったとすれば、彼らは判断を誤った、と言える。陳豨の乱はいわば内紛であり、説得して事態を平静化しようと思えば、難しいかもしれないが出来ないことはない。それに比べて自分は匈奴を従えており、外敵である。どちらを深刻な問題として重要視するかの判断を、漢は誤ったように彼には見えた。
だが、繰り返すようだが、これも馬鹿馬鹿しい考えである。漢に刃向かっている自分が、漢の判断を心配することはおかしい。偽善ではないかと思えると同時に、自分の甘さも痛感する。柴武に戦って勝てるという保証はどこにもなかったからだ。
――相手に不足を感じるのであれば、まず目の前の敵を完膚なきまでに破ることだ。
実力の差を見せつけ、それによってより強力な相手と雌雄を決する。当然の論理であるが、自分に残された道がそれしかないことに思い至ると、彼は寂しさを感じた。
敗れて死ぬ危険があることを思うと、いてもたってもいられなくなる。死に対して美を感じたことはないが、どうせ死ぬのであれば忠節の士として死ぬのが望ましかった。
あのときの周苛のように。
しかし自分は王族なのだから他人に忠節を提供するのではなく、逆に人から忠節をもって迎えられるべき存在であった。そう思ったからこそ馬邑を放棄したのである。よって自分に周苛のような死に方は期待できない。戦って勝てないとあれば、単なる叛逆者として死ぬしかなかった。
彼は、どうしてもそのことが受け入れられなかった。
*
一方の柴武である。彼は参合にたどり着き、そこに韓王信がいることを知ると、部下に縦一尺程度の板を二枚用意するよう命じた。
「このようなときになぜ板などを……? 書でもしたためるおつもりですか」
副将の問いに柴武は答える。
「そうだ。書簡を届けて相手の出方を知る。うまく韓王の心に訴えることができれば、彼の心を知る手がかりとなろう」
「なぜ二枚も?」
「同じ内容のものを二つ作成して、ひとつは韓王のもとへ届ける。もうひとつは後世のために保管するのだ。彼の返信の内容次第では、この書簡こそが彼の名誉を守る唯一の手段となる」
名誉を守るということは、韓王信を説得して帰参させるということだろうか。副将をはじめ、その場に居合わせた部下たちは皆一様に疑問に思った。匈奴を引き連れ、悪逆の限りを尽くした人物が帰参したからといって皇帝が許すはずがないと。
「討つ。殺すつもりだ」
柴武は部下たちの声なき疑問に答えるかのように、そのひと言だけを残した。
――せめて名誉ある死に方を……。私に出来ることはそれしかあるまい。
柴武は、韓王信の心の内を見透かしていたかのようであった。




