十
韓王信は思う。自分たちと匈奴は戦う目的が同じであることは確かだが、明らかに温度差があると。自分たちは故郷へ帰るために必死に、しゃかりきになって戦うのに対して彼らは決してそうではなかった。匈奴の連中は戦って敵から財宝や食料を強奪するとそれに満足し、最終的な目的に達してもいないのに平気で撤退したりする。彼の目には、匈奴が戦いを楽しんでいるだけのように見えるのだった。
それでいて野戦では圧倒的に彼らの方が能力がある。自分たちにあれだけの力があれば、敵からもっと多くのものを奪うことができるだろう。
彼らはそれを自覚しているのだろうか。もし自覚しているとしたら、存外彼らには自制心があり、その自制心のおかげで天下は決定的な破局を迎えずに済んでいる、ということになる。
強者の自制。つまりそれは「お情け」に違いなかった。今、白登山で包囲されている皇帝劉邦がそれを知ったら烈火の如く怒り狂うに違いない。
韓王信はしかし劉邦がそれを知って怒ることはないと信じた。なぜなら劉邦はそれに気付かぬうちに死ぬことになる、と信じていたからである。
しかしそうはならなかった。
漢の護軍中尉の陳平はひそかに策を巡らし、ある種の方法で冒頓の妻と接触を持った。そして大量の貢ぎ物を与え、それが原因で包囲は解かれたのである。貢ぎ物に籠絡された冒頓の妻が、夫の鋭気を和らげたのであった。
劉邦は結局生還してしまった。
「いったいどういうことだ。君らはやる気があるのか」
韓王信は帰還した冒頓に思わず詰め寄った。
しかし冒頓はそれをなだめるような、泰然とした態度で応対する。
「漢からは搾れるだけ搾り取っておかねばならぬ。ここで皇帝を殺したとしても、今すぐ天下が我々のものになるとは限らぬ。我々は局地戦でこそ優位に立てるが……冷静に考えてみよ。漢は物産が豊富で人口も多い。彼らに総力で我々に対抗されたら勝ち目はないのだ」
冒頓の言葉はところどころ聞き取れなかったが、韓王信にはおおよその彼の言いたいことが理解できた。しかしそれに納得したわけではない。
「漢は確かに人口は多いし、匈奴よりも兵の数は多い。しかし、総じて烏合の衆だ。君たち匈奴のように国中の男子がすべて兵士というわけではない。総力で匈奴に対抗することなど、あるはずがないのだ」
「そうかもしれぬ。しかし今の我々に、漢を統治する能力はないし、その気もない。滅ぼす必要がないのだ」
「なぜだ」
「わからない奴だ。漢がなくなってしまったら、我々はどこから略奪すればいいというのか」
――やはり、こいつらは山賊に過ぎぬ。
少なくとも漢の土地を得るという目的だけは同一だと思っていたが、彼らの目標は中原の支配権を得ることではなかった。ただ、そこから供される利益を得られればそれでいいのだった。
「なるほど、よくわかった。君たちの考えは理解できたが、以後吾は吾のやり方で戦わせてもらう。構わないな」
――降伏した身で、偉そうに言うものよ。
冒頓は内心でそう思ったが、別に怒った感情はない。勝手にしろ、最初からあてにしておらぬ。そういう気分であった。
「韓王が韓王のやり方で戦うのは、構わぬ。しかし、君が漢を滅ぼして皇帝の座についたとしたら、わしは君から略奪することになる。そのことを忘れるな」
これを聞いた韓王信は、笑った。
「単于よ。吾にはそんな大それた野望はない。しかし……君は知らないだろうが、中原には戦上手の者がいくらでもいる」
「項羽は猛将だったと聞いておるが、すでに死んだそうじゃないか」
「確かに。だが淮陰侯は存命だ。いざとなれば君を滅ぼせる者が、まだ漢にはいる。今君がこうしていられるのはとてつもなく幸運なことなのだ」
韓王信はそう言い残し、天幕をあとにした。匈奴と訣別したわけではないが、これ以降、お互いに頼り合う関係ではなくなったのである。




