一
都合の悪いことは忘れ去るという得意技を持っていた彼にしても、あのときの光景は今でも目に焼き付いている。
滎陽を囲んだ無数の兵の先頭に立つ項羽の姿。城中の食も尽き、彼らは進退極まった。
――いよいよだな。
遅かれ早かれ、滎陽は落城する。彼らの使命は、それを出来うる限り引き延ばすことであった。しかし当然のことながら、落城後に彼らが辿る運命には、保証がなされていない。
「銘々に城を脱出し、落ち延びよ。これまでご苦労であった」
滎陽の守将は城中に残った兵卒たちに向かって、そう言った。そして、守将は彼にも言い渡す。
「あなた様もお逃げください」
その瞬間、不覚にも彼は安堵した。しかしほぼ同時にそんな自分に嫌気がさす。
「いや、ともに吾も戦おう。ここで逃げ出したとして、捕われれば虜囚の辱めを受けることとなる。それよりはいっそ奮戦して雄々しく命を散らした方がましだ」
彼はそう言ったが、守将は首を縦に振らなかった。
「いけません。あなた様が乱戦で命を散らしてしまっては、王家の血が絶えてしまいます。これは……とてつもない損失だ。二百年以上にもわたる王家の血筋を私の決断で絶やすことはできない。私にはそんな権限はないのです」
「吾が、それで構わないと言っているのだ」
彼はそう答えたが、結局守将はそれを受け入れなかった。
彼我の兵力の差を考えると、事実上、脱出しても逃げ切ることは不可能であった。これはつまり脱出は同時に捕虜になることを意味する。しかし守将はあえてそうしろ、と言っているのであった。
「生き延びてください。その後、楚に味方するか漢に味方するかはお任せします。まあ私としては、せっかくなので漢に味方してほしいのですが」
不承不承、彼は守将に言われたとおり、脱出を果たした。そして結局楚軍に捕らえられたのである。これも言われたとおりであった。
それからほどなくして滎陽は陥ちた。楚兵たちは守備兵のいなくなった城壁をよじ登って侵入したかと思うと、あっという間に守将を捕らえ、城外の原野に引き連れてきたのだった。
虜囚となった彼の目にもそれは見えた。
項羽と二、三の問答を交わした後、守将は煮殺された。しかし彼の耳にはその問答は聞こえなかった。
およそ二か月の籠城戦が、ここに終結したのである。彼にとって忘れられない光景……それを象徴するのが煮殺される守将の周苛の姿であった。
彼の名は、韓信。しかし当時漢の大将軍であった韓信との混同を避けるため、一般に彼は韓王信と呼ばれた。