第2話:魔導の王は、猫の性(さが)に勝てない
地下書庫から自室の女子寮へと戻る道中、アルマは心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。
理由は簡単だ。
自分のマントの懐に、もぞもぞと動く「喋る毛玉」が収まっているからである。
「……おい、小娘。さっきから揺れすぎだ。この我を酔わせる気か」
「静かにして、ノア! ここは女子寮の廊下なの。ペット禁止なんだから、見つかったら即退学、即放り出しだよ!」
アルマは小声で必死に嗜める。
幸い、消灯時間間際の廊下に人影はなかったが、ノアの尊大な声はマント越しでもよく通る。
「フン、ペットだと? 万物の真理を統べるこの我を、愛玩動物と同列に扱うとは……。まあいい、今日のところは貴様の粗末な寝床を検分してやろう。感謝しろ」
ようやく自室に辿り着き、アルマは鍵を閉めて大きく息を吐いた。
そして、懐からノアをベッドの上に放り出した。
「ふぅ……。ここが私の部屋だよ。狭いけど、我慢してね」
ノアは着地と同時に、優雅に身を震わせて毛並みを整えた。
そして、部屋の中を鋭い金色の瞳で見渡す。
「……ほう。これはまた、驚くべき貧相さだな。床は軋み、棚には安物の薬草。窓からの景色も、王宮の庭園に比べればドブ川のようだ」
「ひどい言い草だなぁ。見習いなんてみんなこんなもんだよ。あ、そうだ。ノア、お腹空いてるんでしょ? さっき言ってた煮たお魚、あるよ」
アルマは魔法で火を熾す代わりに、魔法道具の小さなコンロを使い、昼間に食堂からもらっておいた小魚の干物を湯で戻し始めた。
「……フン。言っておくが、我の舌は肥えているぞ。王家の晩餐ですら一口で突き返したこともあるほど……」
ピクッ。
ノアの長い耳が、妙な動きをした。
コンロから、魚の出汁の良い香りが漂い始めたのだ。
「……っ」
ノアの鼻が、ヒクヒクと超高速で動き始める。
その瞳は、いつの間にか一点を凝視していた。
「あ、できたよ。はい、どうぞ」
アルマが粗末な皿に盛った魚を差し出すと、ノアは一度フイと顔を背けた。
「……待て。我は今、世界を再構築する魔術式について思考を巡らせていたのだ。食事など、生命を維持するための最低限の作業に過ぎな――」
グヌヌヌ、と。
ノアの喉から、奇妙な音が漏れる。
「……ノア? 大丈夫?」
「だ、黙れ……! 寄るな! 我は今、この肉体の……『猫』という器が持つ浅ましい本能を制御している最中だ……!」
ノアの尻尾が、自分の意志とは無関係にパタパタと激しく床を叩いている。
その目は、皿の上の小魚から一ミリも動いていない。
瞳孔は全開になり、さっきまでの「賢者」の面影はどこにもなかった。
「……くっ、やめろ! 止めろ! 我の右前脚よ、勝手に皿へ伸びるのではない! 我は魔導の王、黒天の――」
「はいはい、召し上がれ」
「――ニャアアアン!!」
ノアは断末魔のような叫び(というか鳴き声)を上げると、凄まじい勢いで魚に飛びついた。
もはやプライドなど欠片もない。
前脚で魚をがっしりと掴み、一心不乱に食らいつく。
「おいひい……なひだこれ、おいひい……!」
「……喋りながら食べるのはお行儀悪いよ」
「うるはえ! これは魔力の充填だ! 儀式なのだ!」
あっという間に皿を空にしたノアは、満足げに自分の顔をペロペロと舐め始めた。
そして、ハッと我に返ったように硬直する。
「……今のは、忘れるがいい。魔力の暴走による、一時的な意識混濁だ」
「はいはい。じゃあ、明日の予習しなきゃいけないから、ノアはそこで寝ててね」
アルマが机に向かい、古い教科書を広げると、ノアは「フン」と鼻を鳴らしてアルマの肩に飛び乗った。
「どれ、貴様の無能っぷりを眺めてやるとしよう。……ふむ、なんだこの低俗な術式は。『火球』の構成に三工程もかけるとは、作者の頭に虫でも湧いているのか?」
「そんなこと言われても、これが教科書なんだもん。私なんて、その一工程目すら上手くいかないんだから」
アルマが杖を構え、魔力を練ろうとする。
しかし、彼女の魔力は細い糸のように弱く、形を成す前に霧散してしまう。
「……あーあ、やっぱりダメ。私、根本的に才能がないのかな」
落ち込むアルマの目の前で、ノアが溜息をついた。
そして、彼はアルマの手元にあった「ハたき」を前脚でちょいちょいと突いた。
「おい、小娘。そのハたきを動かしてみろ」
「え? 掃除の続き?」
「いいからやれ。左右に、不規則にな」
首を傾げながらも、アルマはハたきを左右に振ってみた。
バサッ、バサッ、と空を切る音。
「……っ!!」
ノアの顔色が変わった。
金色の瞳が左右に揺れるハたきを、恐ろしい精度で追っている。
彼の腰が、じりじりと低くなった。
「ノア、これ何の関係が――」
「黙れ! ……くるぞ、ヤツがくる! 悪しき波動を感じる……! 討たねばならぬ、我の誇りにかけて!」
「えっ、敵!? どこに!?」
「そこだあああ!!」
ノアはアルマの肩から猛然とジャンプし、ハたきに飛びついた。
ガシガシと前脚で攻撃し、後ろ足でケリケリを繰り出す。
「ちょっ、ノア! これ掃除道具だよ!」
「はぁ、はぁ……! 見たか、小娘。我の神速の連撃を……! 敵の機先を制するとは、こういうことだ」
「……ただハたきにじゃれてるだけにしか見えないんだけど」
「バカめ! これこそが、魔力を使わずに事象に干渉する極意……『直感の錬成』だ!」
ノアはハァハァと息を切らしながらも、無理やり理論武装を始めた。
その後も、アルマが消しゴムを落とせばそれを獲物のように追いかけ、カーテンが揺れれば戦いを挑み、最終的にはアルマの振るペン先に翻弄されて、部屋中をドタバタと駆け回った。
「……ノア、もう寝よう? 疲れたでしょ」
「……貴様、我を……遊んだな? この我を、オモチャのように……」
ノアは毛をボサボサにしながら、最後のプライドを振り絞ってアルマを睨んだ。
が、そのままコテリ、とベッドの上で横たわった。
「……寝る。明日は、貴様の魔力回路を根性から叩き直してやる。覚悟しておけ……グゥ……」
数秒でいびきをかき始めた黒猫を見て、アルマは呆れながらも笑ってしまった。
「伝説の魔導王ねぇ……」
アルマはそっと、ノアの小さな頭を撫でた。
今度は避けられなかった。
それどころか、寝ぼけたノアは「ゴロゴロ……」と、この世で最も幸せそうな音を喉から鳴らし始めたのだった。
明日からの学園生活が、今日までよりもずっと騒がしくなることだけは、間違いなさそうだった。




