第14話:調理実習の伏兵と、禁断の「ハタハタ」
「……おい、小娘。この廊下を満たしている、鼻腔を狂わせる芳醇な香りは何だ。……我の魔力感知が、北の海から運ばれた『銀色の至宝』の存在を告げているぞ」
月曜日の昼下がり。
ダイエット二日目(実質終了済み)のノアが、アルマのマントの中で激しく鼻をヒクつかせていた。
「……今日は中等クラスの調理実習だよ、ノア。秋の味覚、ハタハタの塩焼きをやるって、ケットルちゃんが言ってた」
「ハタハタ……! 鱗のない滑らかな肌、そして焼けば溢れ出す脂のシンフォニー……! ……アルマ、我は決めた。今日の特訓は、あの実習室への『潜入』だ」
「(……ただのつまみ食いでしょ!)」
アルマは呆れながらも、ノアのあまりの気迫に押され、調理棟の陰へと足を向けた。
調理実習室は、焼き魚の香ばしい煙で満ちていた。
生徒たちが炭火を熾し、串に刺したハタハタを丁寧に焼いている。
「(……ほう。……見ろ、アルマ。あの焼き色。……外はカリッと、中はジュワッと。……まさに、魔導の炎による錬成の極致だ……)」
ノアはマントの隙間から、よだれを垂らしながら(本人は魔力の雫だと言い張っている)調理台を凝視していた。
「(……小娘。隙を見て、あの端っこの一匹を……我の『空間転送』で――)」
「(ダメ! そんなことに魔力使わないで! ……あっ、エドワード先輩!?)」
「……やあ、ベルンさん。……こんなところで、何を『観測』しているのかな?」
背後から、音もなく眼鏡の悪魔が現れた。
エドワードの手には、何やら「自動で回転する銀色の箱」が握られている。
「(――なっ!? またあやつか! ……アルマ、逃げろ! 我のダイエット計画を、脂質で阻害しに来たぞ!)」
「……特級検体。……今日は君に、新開発の『高カロリー魔導スナック・全自動射出機』を試してもらいたいと思ってね」
エドワードがスイッチを押すと、箱の中から「シュバッ!」と、濃厚なチーズの香りがする小魚のチップスが飛び出した。
「(……っ!? ――左から、チーズの誘惑! ……右からは、ハタハタの芳香! ……おのれ、眼鏡! 我を二律背反の迷宮に閉じ込めるつもりか!)」
ノアの首が、右(調理室)と左を高速で往復する。
彼の金色の瞳が、かつてないほど激しく回転し始めた。
「(……耐えろ、ノア! 貴様は王だ! ……あ、あのチーズ……。……いや、ハタハタ……。……ああ、どっちも、どっちも『真理』だ……!)」
「……ほう。……迷っているな。……精神の葛藤が、毛並みの逆立ちに現れている。……素晴らしいデータだ」
エドワードは冷徹に、ストップウォッチを連打した。
さらに、射出機から次々とチップスが放たれる。
「(――ヌオオオッ! ――こうなれば、全方位同時摂取だ!)」
ノアはついに本能の封印を解いた。
アルマの肩から猛然とジャンプし、空中でチーズチップスをキャッチ!
そのままの勢いで調理室の窓枠を蹴り、無防備に置かれていた「焼き上がりのハタハタ」へとダイブした。
「(――とったあああ!!)」
ガシッ!!
ノアは口にハタハタを、前脚にチーズチップスを抱え、調理室の換気扇の上へと避難した。
「あ、コラ! 野良猫! 私のハタハタがー!」
「捕まえろ! あいつ、私のチーズも盗んだぞ!」
実習室は大混乱に陥った。
アルマは顔を真っ赤にして、「(ノアのバカアアア!)」と叫びながら、その場を逃げ出した。
放課後。
寮の屋上で、パンパンに膨らんだお腹を抱えて横たわるノアの姿があった。
「(……ふふふ。……完全なる……勝利だ。……海と陸の、究極の……融和……)」
「……勝利じゃないよ、ノア。……明日、カレン先生に呼び出しだよ、これ」
アルマは溜息をつきながら、ノアの泥だらけの足をタオルで拭いた。
結局、ダイエットどころか、体重はさらに増大し、ノアの「魔導王」としての威厳は、脂の乗ったハタハタの前に、無惨にも散っていった。
「(……アルマ。……明日からは、本気で……動くから……。……だから、あのアゴに……ついた脂を……取ってくれ……)」
「(もう……自分で行きなさいよ)」
秋の夕暮れ。
アルマの溜息と、満足げに眠るノアの「プー、プー」という高い寝息が、学園の屋上に虚しく響いていた。
エドワードの手帳には、新たに『検体、脂質への耐性ゼロ』という残酷な事実が刻まれたのであった。




