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燃える男 MLB投手 ドン・ウィルソン(1945-1975)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/03/22

ヒューストン・アストロズというチームはなぜか悲劇性が伴っていた。なにしろ永久欠番に選ばれた最初の三人は全員悲劇のヒーローだったほどだ。その中でもドン・ジョンソンは現役中に謎の死を遂げたことで、全米のゴシップネタになったが、当時(昭和50年)は日本ではメジャーへの関心が少なく、来日外国人選手以外が話題になることはなかった。

 日本のプロ野球で現役スタープレーヤーの事故死という例はないが、メジャーでは一九〇五年に通算打率三割四分六厘という素晴らしい記録を持つエド・デラハンティが、首位打者獲得の翌年に泥酔状態でナイアガラ川に転落死して以来、キャリア絶頂期の選手の事故死は意外なほど頻繁に起こっている。

 二〇一三年度ナ・リーグ新人王のホセ・フェルナンデス(マーリンズ)、MAX一六四キロの豪速球男ヨーダノ・ベンチュラ(ロイヤルズ)にしかり、一流メジャーリーガーの事故死は一向に後を断たない。

 その中の一人ドン・ウィルソンは最もミステリアスな死を遂げた選手として知られ、死後しばらくの間は自殺か他殺か事故死かでメディアを賑わせた。


 高校時代までのウィルソンは同じ高校でエースだった兄の影に隠れ、登板する機会はほとんどなかった。大学入学後、本格派速球投手として頭角を表わし、一九六四年にヒューストン・コルト45’S(アストロズの前身)から指名を受けるが、マイナー時代はほとんどリリーフでの起用だった。

 2A時代の一九六六年には先発として一八勝六敗の好成績を残し、同年九月二十九日にアストロズに昇格した。この日にリリーフでマウンドに立ったウィルソンは本塁打を浴びたものの、六回を五安打二失点七奪三振に抑え、初登板初白星という幸運なデビューを飾っている。

 実質的なルーキーシーズンとなった一九六七年は先発ローテーションの一角を占め、十勝九敗、防御率二・七九だったが、この数字以上にウィルソンが随所でファンに与えたインパクトは強烈だった。

 同年六月十八日のブレーブス戦では早くもノーヒット・ノーランを達成。この時奪った十五三振のうち三個は憧れの存在だったハンク・アーロンからだった。アーロンとは二度目の対戦でも三打席一四球二奪三振と封じ込めており、前年度の二冠王にしてこの年も本塁打王を獲得する全盛時代のスーパースターを年度通算五打数五三振(二四球)と手玉に取った豪速球は、同時代最高の投手サンディ・コーファックスと並び称されるほどだった。

 七月は五試合投げて四勝〇敗(二完封)と完璧なピッチングを披露。七月九日のカブス戦から二十六日のフィリーズ戦まで二十九回三分の二を無失点に抑えたが、記録が途絶えたのはボークによる失点であり、この間被安打十二、奪三振二十九だった。

 やや腰高のスリークォーターから投げ込むストレートは、打者の手元でぐっと伸びるライジングファストボールで、強いシュート回転がかかっているため、アーロンのような右の長距離打者が強引に引っ張ろうとすれば、高めは空振りかポップフライ、低めはゲッツーにおあつらえ向きの内野ゴロになりやすかった。

 コントロールにはやや難があったものの、調子がいい時のストレートとチェンジアップ、ハードスライダーの組み合わせは並み居る強打者を寄せつかなかった。

 シーズン終了後、ウィルソン夫婦はサウス・ヒューストンに自宅を購入したが、まだ給料が安かったのでオフの間はスポーツ用品店でアルバイトをしていた。

 

 翌一九六八年は現在もなお球団記録として残る一試合十八奪三振を記録した。

 七月十四日のレッズ戦、絶好調のウィルソンは一回から三回まで四球を挟んで九つのアウトを全て三振に斬って取った。四回に連打と味方のエラーで一点を失ったものの、五回まで毎回の十三奪三振というハイペース。九回に先頭打者を三振に取ってリーチとなったところで、気が逸ったか四番のペレスに二塁打を浴びた。

 五点ビハインドの九回一死にもかかわらず、五番のピンソンがバントをしてきたのは明らかに記録達成阻止の目的であり、ウィルソンも憤慨したが、次打者のベンチを冷静に三振に仕留め、ボブ・フェラーらが持つ当時のメジャー記録に並んだ。

 一九六九年五月一日のレッズ戦では二度目のノーヒット・ノーランを達成。毎回の十三奪三振という快投だった。実は前日の試合でレッズのジム・マロニーからノーヒット・ノーランに封じ込められていたため、ウィルソンにとっては汚名返上がかかった絶対に負けられない試合だった。

 それだけに終盤になってノーヒッターを意識し始めるとマウンドで何度も足ががくがくしたそうで、気の強い彼にしては珍しい。

 前日チームがマロニーに喫した数とちょうど同じ十三個の三振を奪ったのも、投球内容でもマロニーに負けたくないという思いが強かったのだろう。

 ウィルソンの鬼気迫るピッチングは、四月は四勝二十敗とどん底だったチームに喝を入れた。なんと五月中盤からは十連勝(うちウィルソンが三勝)と巻き返し、終わってみると前年度の最下位チームが創立以来初の勝率五割(五位)に達していた。


 一九七〇年はシーズン当初の右肘の腱炎で満足な活躍が出来なかったが、休養十分で迎えた一九七一年は初のオールスターで二回を無安打二奪三振で締めたほか、終盤に八連勝を挙げるなど絶好調だった。自己タイの十六勝、キャリアハイの防御率二・四五を記録したウィルソンはチームMVPにも選ばれた。

 しかし、この時期を境に次第にかつての豪速球は影を潜めてゆき、カーブとスライダーを中心とした打たせて取るピッチングへと変わっていった。

 象徴的なのは最後のシーズンとなった一九七四年である。この年は四つの完封勝利を決めているが、最も多く三振を取ったのが七月六日のパイレーツ戦の四個であり、人生最後のマウンドとなった九月二十八日のブレーブス戦に至っては二安打とほぼ完璧に抑えながら三振はゼロだった。

 不思議なもので、ウィルソンが力で押すピッチングから技巧派へとモデルチェンジしてゆくにつれ、性格まで温厚になっていった。若い頃はかなり尖った性格で、監督やコーチにも平気でたてつくやかまし屋だった。

 時に口論することがあっても彼のことを「リーグ最高の投手」と買っていたハリー・ウォーカー監督の更迭後、後釜に座った名将レオ・ドローチャーとは特に不仲で、このことがドローチャーがチームを去る要因の一つだったと言われている。

 一九七四年九月四日のレッズ戦、八回までノーヒットのウィルソンに代打が送られ、九回表にリリーフ登板したマイク・コスグローブがいきなりヒットを打たれた時のこと。周囲はこの采配ミスにウィルソンが激怒するかと思いきや、試合後のインタビューでは思わぬ答えが返ってきた。

 「チームより個人の目標を優先していては勝利を得ることはできない。私が勝ちたいのと同じくらい監督も勝ちたいんだ。だから私はプレストン・ゴメス監督を尊敬しているよ」


 ウィルソンが自宅ガレージで排ガス中毒死したのは、一九七五年一月五日の昼間のことだった。

 電動シャッターの下りたガレージに充満した一酸化炭素は自宅の寝室にまで流れ込み、妻が異変に気付いた時には息子と娘はすでに昏睡状態だった。妻と娘は比較的症状が軽かったが、長男は一酸化炭素中毒で死亡した。

 他殺説が飛び交った根拠は、ウィルソンが一九七二年型サンダーバードの助手席でカーオーディオのスイッチが入ったままま亡くなっていたことによる。

 カーオーディオはエアコン同様に電力消費が激しいため、エンジンをかけておいて聴くのはわかるが、それは屋外かガレージのシャッターを開けた状態での話であって、密閉された空間で七・五リッターもの大排気量を持つ車のエンジンをかけっぱなしにしておくなど正気の沙汰とは思えない。

 仮に自殺するつもりだったとしても、就寝中の家族まで巻き込む可能性があるようなことを果たしてするだろうか。

 検死報告では、飲酒運転で帰宅したウィルソンが車内でそのまま寝入ってしまったところ、何らかのエンジントラブルによってガスが発生したものと結論づけられているが、車内で寝込むほど泥酔しながらガレージにちゃんと車を入れることができたというのも不可解である。

 ウィルソンの事故死は、チームにとっては一九六四年四月のジム・アンブリットの癌病死以来の悲劇だった。

 アンブリットは現役最後の登板を勝利で飾ってから六ヶ月後に力尽き、翌年チーム名がアストロズと変わってからその背番号32が球団初の永久欠番となったが、皮肉なことに球団二番目の永久欠番も現役中に死亡したウィルソンだった。

 アストロズの悪夢の連鎖はまだ続く。ウィルソンの後にエースの座に就いたJ・R・リチャードもキャリアの絶頂時に脳卒中で倒れ、幸い命は取り留めたものの再起不能となったのだ。

 現役時代の実績十分のリチャードもまた永久欠番となったが、チーム創設以来の永久欠番が三人揃って野球生命を突然断たれた悲劇の主人公というのは何ともオカルティックである。

 一九九二年にマイク・スコットの背番号33が球団四番目の永久欠番に決定したことで、ようやくアストロズも憑き物が取れたか、二〇〇五年に初のリーグ優勝、二〇一七年にワールドチャンピオンに輝いた。

 生涯成績104勝92敗 防御率3.15


記憶に残るメジャーリーガーの悲劇的な死の最初は一九七九年に飛行機事故に遭ったヤンキースの強打の捕手、サーマン・マンソンだった。それもリアルタイムではなく、しばらくたって野球雑誌の記事で読んだものだ。ちなみにロベルト・クレメンテの飛行機事故は小学校低学年の時だったので全く覚えがない。

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