三滝の宣伝
騒がしい店内は人々を受け入れ、細長いグラスに注がれた色とりどりの酒が地味な内装を彩る。肉の焼ける匂いが煙とともに運ばれてきては三滝の食欲を強く誘う。目の前にて泡に塗れた黄金の液体を豪快に飲み干す男の姿がどこか頼もしく見えてしまう。彼はグラスをテーブルに叩きつけるように置き、三滝のやせ細ったというよりはやつれたと言った方が正しいだろうか、そんな目に毒ともなりかねない痛々しい弱々しさを見ては口を開いて空気の振動を引き起こす。
「三滝は来月号の取材は済ませたのか」
「ああ、もちろん、でなきゃ飲むことすら許さない編集長がいるのでな」
三滝は飲みに向かう直前に立ち寄った本屋で本棚の影に隠れるようにひっそりと置かれていたオカルト雑誌の存在を確かめたことを思い出す。三滝は三流程度ともそれ以下とも言われているオカルト雑誌、月刊アガルタの雑誌記者。目の前の男もまた同じく、つまるところ同業者の飲み会だった。
「先輩の女々怪奇、毎月楽しく読ませてもらってます」
「あれいいだろ、世の男なんて昔から女女女女とばかりだし今も変わりない。だから女に関係したこの世ならざる者や怪奇を女に結びつけた記事を書くコーナーを作った」
基本的にアガルタはオカルトがテーマであり色気枠など必要ないと思いつつも三滝の中ではギャグか変態かと内心呟きながら嫌らしい微笑みを浮かべて読むちょっとした名物コーナーとなっていた。実際アンケートではそれなりの人気を博しているがために終了しようにも実行に移せないというのが編集部の見解だったそう。
「昔はオカルトに根付く色気はオカルトそのものにありと思っていたのですが」
「ああ、入社当初言ってたやつな」
あの日にも同じように二人向かい合って飲んでいただろうか。この仕事を始めたばかりの三滝は先輩と向かい合ってまさに彼が書いている記事が不必要だとも取ることの出来る発言を行なってしまったものだ。言葉を選ぶにも相手の扱う作風を把握した上でなければならないという大切な経験を積んだあの日は酒の勢いでも忘れられないものだ。
「最近じゃ先輩の持ち込む色気満載のギャグ記事も必要かなって感じてきました」
「でも三滝の記事もたまに羨ましいな、雑誌全体で地球外生命体をテーマにした時には月からやってきたうさぎを取り上げたり」
「あとヴァルプルギスナハトのお祭り紹介だろう」
どうにも三滝の記事に関しては正統派のオカルト記事よりもネタや本来想定されている読者層の趣向から逸らした方が人気を取りやすいようだとここ数年で思い知らされた。実力派は他のライターに任せろと言ったところだろう。
「あの記事読んでうさぎが恋しくなったからな」
「ヨモギ餅を飲み込んでツチノコ化した蛇とか個人的に気に入りだったな」
三滝と先輩の中で差が生まれた。何を最も美しく思えるか、どのような事を最優先に考えているのか。例え上から五つほど好きなものを上げてみれば好きなものが全て一致するとしても順位まで問われると必ずしも同じではないのだと感じさせられる。
仕事仲間との飲み会でも最も回数の多い彼とのひと時が過ぎ去る合図は先輩が財布を開くことで訪れた。伝票を持って半分ずつ出し合い店を後にしたその時、夜闇に溶けるように馴染んだ黒猫の姿を見た。猫は黄色いガラス玉のような目で二人を覗き込みながら欠伸をして顔を掻いている。
「可愛い子だ」
「この子が横切って不幸になるなんて言った国の人間はセンスの欠片もないな」
二人ともに癒しを得ていると黒猫の背後に佇む静寂が赤子のような声の響きにより割れてしまった。響き渡る音と揺れる心。痛々しい音が破片となって耳に突き刺さって、しかしながら最も大きな感情は不安と呼ばれているものだった。
「仔猫、だよな」
「ネコだといいけどな」
願っていることはオカルト雑誌の記者としてはいかがなものだろうか。二人揃って祈る平穏は誰の不幸も望まないという意思の表れ。彼らのことを裏切るようにより大きくより鮮明になりゆく声は鳴きか泣きか。亡き子が無き事を願う度に確かにそこに在ったのだと告げるように声を上げる。
「あんなところに母とかないよな」
「そんなわけないじゃないですか、あったら先輩の女々怪奇行きです」
メメカイキ、反響する三滝の声がより不安を強く色付ける。臆しても仕方ない、不明は出来る限り暴いてその中に凝縮された真の不明を味わおう、奥にて億の富を求めよう。言い聞かせるためについた嘘の数々は言霊とはなり得ないか。中々進まない第一歩は勇気の偉大さを説いている。未だに大きく響く鳴き声は周囲の人々には聞こえていないのか、雑踏の流れは一切妨げられずに貫かれている。仮に捨てられた赤子だったとすれば二人の罪は形を帯びてしまう。例えそうでなくとも可能性を残したままでは数日間は労働に支障をきたしてしまうことだろう。
ようやく一歩を踏み出したのは先輩の方。三滝は後に続くように靴で地を叩いて。二人で進む道は暗がり。目の前に心強いはずの先輩がいるものの恐ろしさは心を凍り付かせてしまうものだ。
踏み出して、更に踏み出して。街灯すら届かない路地の中、先輩の身体の影に隠れて前の景色が見えないという状況が更に不安を強めてしまう。声は先程よりもよく目立って静寂を認識して。感覚が限定されるということを知っては恐怖に背筋を凍えさせてしまうも何が出来るのか全くもって分からない。
やがて先輩の肩の向こうに段ボールの存在を認めてどちらだろうかと想像を巡らせては恐怖に完全に支配される。赤子のものとも猫のものとも思える絶妙な声の発生源は段ボールの中だとすぐさま理解した。段ボールを凝視する。おぞましさに打ち負かされそうになるものの真実を知らずにはいられない。段ボールの縁をつかむ暗がりの中の暗がり、外から遮られているはずの明かりが三滝を追い抜き一瞬だけ周囲を照らす。車が横切る音を遠くに聞きながら段ボールを掴む手の正体を知って心臓が飛び跳ねる感覚を鮮明に描いている。
先輩は振り返り、三滝を押すようなジェスチャーで狭い路地を抜け出すように合図を送る。真剣そのものの顔を見せる先輩の姿に日頃のものとの違いの大きさを感じながら振り向いて歩く。
「赤子のほうがまだ良かったかも知れない」
「どういう事ですか」
言葉よりも先に行動と言いたげに三滝を押して外へと出て深呼吸を繰り返す。緊張が未だに張り付いていることを感じながら埃っぽさを持ってしまった心の換気をするべく何度も深呼吸を繰り返し、やがて三滝は再び訊ねる。
「さっきの、赤子のほうが良かったってどういう事ですか」
しばらく考え込むように黙り込んでいたものの、盛大に溜め息をついて先輩は口を開こうとするも重々しい動きは形になってくれない。場所を移してカフェに行き、コーヒーを一口飲ませることでようやく低く力を失った声で語り始めた。
「段ボールの中身は空、そう。空っぽだったんだ。なのに、なのに」
声が響いていた。決定的な言葉など聞かずとも理解できた。三滝もまた心霊体験の経験者の一人であり、あの体験を想像することが出来ない事など考えられない。
「どうしましょう、記事にしますか」
三滝に問われて先輩はしばらくうつむき唸ったまま黙り込んでいる。三滝は彼の反応を待って数秒だろうか。恐怖の余韻と回答を待つ姿勢が時間感覚を十倍にも引き伸ばしてしまう。
「やめておこう、三滝の好きなあの言葉に従って」
そうして深追いはやめた。三滝は心の底で不満を抱きつつも安心を与えられ、顔にこもった力を抜く。空っぽといった彼は三滝を安心させるために嘘をついたのだろうか、それとも本当だろうか。どちらにせよそれはもう目にも入れたくない代物だった。あの時三滝は見てしまったのだから。段ボールの縁に手をかけるそれは黒猫のように闇に溶け込んでいながら赤子のものによく似ていた手の形を。
まだまだ初々しかったあの日のこと。この仕事もこの居酒屋での飲み会も数え切れないほどに重ねるとは思っていなかったあの時、居酒屋にて先輩がレモンの香りの混ざった酒とともに質問を差し出したのだ。
「なんだ、新人くんとでも呼べばいいか」
雪とともに溶けてしまいそうなまでの大人しさを誇る声で名を告げたことは今でも忘れられない。あまりにも間抜けな反応に対して彼は明るい笑みを浮かべながら次の質問を投げかける。
「この雑誌の記者だからこそ問う意味がある。三滝にとってのオカルトの魅力はなにか」
この先輩は仕事中にオカルトは歴史や民俗学、時代に寄り添った心理や信仰といった人間との繋がりを垣間見る、つまるところ未来からの出歯亀趣味だと語っていた。三滝にはそのような立派な発言など出て来ない。代わりに日頃から考えていたことを告げる。
「決して理解に届かない神秘や秘密、そうしたものに触れられることです。影のある世界に魅力を感じている。周りの人々の言う変態性すら寄せ付けず自然とそうある理由も分からない。ただ不気味な存在たち」
「つまり、そういうものに色気を感じてるんだな」
思わず呆れた声を出してしまうところだった。どう足掻いても高校時代の同級生たちが口にしていた下ネタや本来は十八歳未満が知っていてはならない世界の話を思わせる色気という言葉がついてくる理由が理解できない。
「そんな顔するな、はっきり言ってやるよ」
ノートを取り出して先輩は絵を描き始める。線の行く末に妙な感覚を抱きながらも彼の行動から目を離すことが出来ずにそのまま成すままに従って見守る事しか出来なかった。
「秘密だの影のある存在だの危険な香りだの、三滝はそういう仄暗いオカルトの世界に惚れ込んでいる」
そう告げて手渡された絵を見つめて思わず苦笑してしまった。黒く長い前髪で片目を隠した女が妖しい笑みを浮かべているその姿。漫画などで隠し事をして主人公を困らせつつも危機が迫ると助けてくれそうな見た目をした妖艶な大人の女そのもの。
「女の姿にするとこんな感じか、魅入られちまってるんだ、オカルトという概念に魅了されたどうしようもない変態なんだ俺達は」
そんな言葉に反発の姿勢を取ろうとするも適切な言葉が一切浮かんでこない。辺りに散りばめられ地面を美しく汚す桜の花びらがあまりにも儚く愛しく、当時は力強く感じられた彼の言葉が擦り切れ色褪せ過去に散ってしまった花びらの色と重なり合った。




