三度目の正直
イザベルが野営地に連れ帰られた時、他の皆はすでに火を囲んで夕餉を摂っていた。手下たちの間から野卑な口笛が飛んだが、ディミトリはチラリと見ただけで食事を続けた。
男――バティストとトリスもその輪に加わる。
バティストは不機嫌そうな表情のまま串焼きの肉を頬張ったが、トリスは胸の前で掌を組んだ。短い祈りの言葉を唱えてから肉に手を伸ばす彼を、イザベルは意外な思いで見守った。この軽薄そうな男に食前の祈りの習慣があるとは。
「何ぼーっとしてんだよ。あんたも食えよ」
イザベルにも十分な食事が与えられ、天幕のひとつに毛布とともに押し込められた後は、懲罰もなく一人で放置された。
天幕の外では、男たちが賑やかに騒いでいるのが聞こえる。ディミトリか、あるいは他の誰かが押し入ってくるのではないかと、イザベルは頭から毛布を被ってずっと緊張していた。
しかし、人の気配が消え、それぞれの天幕から鼾が聞こえ初めても、彼女のもとには誰もやって来なかった。
イザベルは、ホッとすると同時に気力を奮い立たせた。
(まだ機会はある。今夜ここから逃げ出せれば、私の足でもエカーヴまで辿り着けるわ)
そう決心して起き上がった時、
「この辺りには狼がうろついている」
天幕の布越しに低い声でそう言われ、心臓が跳ね上がった。
「食い殺されたくなければ、朝まで大人しくしていろ」
ディミトリの声だ、とすぐに分かった。耳を澄ますと、警告を裏付けるようにあちこちで遠吠えが聞こえる。
南部生まれの娘が初めて経験する、夜の森の恐ろしさだった。だがそれ以上に、自分の心の動きを見透かし先回りしてくるディミトリの洞察力に、彼女は気力を削がれた。
夜間の逃亡は諦めざるを得ない――だから、三度目の挑戦は昼間だった。
翌々日の移動中、休憩の時間に、イザベルは用を足したいと言って彼らから離れた。
当然のごとく、トリスが見張りに付き添ってくる。彼はもう懲りたらしく、イザベルの腰に細い縄を結びつけた。彼女の向こうっ気の強さをようやく認識したのだ。
イザベルは適当な茂みの陰に入ると、
「そこで見てるつもりなの、変態」
と、トリスを追い払った。
腰縄は固く結ばれていて、刃物で斬らなければ解けそうにない。そっちは諦めて、イザベルは外套の下に隠し持っていた薪を取り出した。
幸い、縄は弛んで地面についており、彼女が移動しても気づかれそうになかった。
イザベルはそろそろとトリスに近づいた。彼は倒れた木の根元に腰掛け、こちらに背を向けている。
もちろん、他人を殴った経験などない。どの程度の力でどこを殴れば大の男を昏倒させられるのか、想像もつかなかった。
だから、思い切りやった。
渾身の力で振り下ろした薪は、トリスのうなじを直撃した。後頭部を狙ったのに少しずれてしまったのは、気配に気づいた彼が振り返ろうとしたからだ。
「いっ……!」
トリスは首を押さえて蹲った。その手から縄が落ちたのを見て、イザベルは一目散に逃げ出した。
節くれ立った木の根や湿った苔で、足元はひどく悪い。まともな道はなく、ゴツゴツした岩を乗り越えて進まなければならなかった。
イザベルは必死で根を跨ぎ、滑りやすい地面に足を取られながら逃げた。
狼に出くわすとか、道に迷うとか、そんな不安は意識の外だった。
(家に帰るんだ。お母さんが待ってる)
目映い日差しが降り注ぐ、夏の葡萄畑が脳裏に浮かんだ。
退屈だと思っていた故郷、その風景が今は心から恋しい。
喘ぐように白い息を吐く少女の願いを、しかし、鋭い風の音が切り裂いた。
フードからはみ出した栗色の髪が数本、切断されて空を舞った。イザベルの耳元から数センチのところを、金属の塊が掠めてゆく。
それは唸りを立て、目の前の杉の巨木に突き刺さった。刃が大きく湾曲した、特徴的な短剣である。
売春宿で彼女を救ったその武器が、今は彼女を追い詰めようとしている。
「ほんとに……何度も……何度もっ……!」
振り向いた先で、トリスが肩で息をしていた。右手は投擲の形を取ったままだが、左手はまだ首筋を押さえている。
「頭冷やせ! 食糧も馬もなしで、こんなとこから逃げおおせるわけねえだろ! 死にたいのか!?」
「あんたたちの慰みものになるくらいなら凍えて死んだ方がましよ!」
イザベルは怒鳴り返して、さらに逃げようとした。
トリスはすかさず距離を詰め、長く引き摺った腰縄の端を掴んだ。強く引っ張られて、イザベルは前につんのめった。
俯せに転倒したところにトリスがのし掛かってくる。ジタバタしても簡単に押さえつけられ、動きを封じられたうえで仰向けにされた。
口元は笑みの形に歪んでいたが、不自然に強張っていた。黒い両眼は冷たい鉱石のようだ。お調子者の仮面は剥がれ、奥から凶悪で冷徹な何かが現れようとしている。
「死んだ方がましだって? 飢えも寒さも知らないお嬢さんが甘えたことぬかすな。本当に死にかけた奴はそんなこと絶対に言えない」
「は、離して……痛い!」
「いいか、今自分が五体満足でいられるのはお頭のお情けだってことを忘れんな。あんたを生かすも殺すも、お頭の気持ちひとつなんだ。せいぜい気に入られるように努力しろ」
トリスはイザベルの顔を覗き込み、鼻の触れ合う位置でそう告げた。
掴まれた腕は骨が軋むほど痛い。体力と経験の差を思い知らされた。
(こいつもやっぱりマトモじゃない……!)
イザベルの全身から力が抜けていく。彼の――彼らの世界と、自分が今まで生きてきた世界との絶望的な乖離を突きつけられ、呆然とした。
悲しいという感情は湧かないのに涙が零れた。
トリスははっとしたように瞬きをし、手の力を緩めた。イザベルの体を起こして、気まずげに顔を背ける。
「……怪我はないな? バティストさんが追っかけてくる前に戻るよ」
そう、外套の土を払いながら立ち上がった。
萎んだ風船のような有様で連れ戻された少女を前に、
「イザベル」
初めて、ディミトリは彼女の名を呼んだ。声にも表情にも怒気は混ざっていないのに、イザベルは圧力を感じた。両腰に手を当てた姿勢で見下ろされると、今にも取って食われそうな気がした。
「素っ裸で馬車馬に跨がるか、俺の馬に乗るか、好きな方を選べ」
馬車馬だ素っ裸だと囃し立てる手下どもを無視して、ディミトリはイザベルを見据える。戯れ言を言っているようにはとても思えず、彼女に選択の余地はなかった。
彼らが連れている馬は、イザベルが故郷で馴染んだそれよりもひと回り大きく、胴も脚も逞しかった。小娘一人分の重さが増えたところでびくともしない。
かくてイザベルは、ディミトリに背中から抱えられて騎乗することになった。
またもやイザベルの逃亡を許したものの、何とか自力で連れ帰ったトリスは、どやしつけられずにすんだようだった。ただ、薪で殴打されたことをからかわれて辟易していた。
全力でぶん殴ったはずなのにもうケロリとしている彼を眺めて、イザベルの落胆は深まった。
トリスは一団の中では比較的華奢な体つきをしている。その彼ですらこれほど頑丈なのだから、他のもっと筋骨隆々とした男たちを倒すなどとうてい無理そうだった。




