旅の始まり
慌ただしい食事が終わるのを待って、トリスは、彼女を買い取った男の名と、彼の生業を明かした。
ディミトリ・デュノール――北の国境を越える密輸や闇取引の総元締め。
蛮族と呼ばれる北方諸国の民との取り引きを一手に仕切っている男だ。金鉱が涸れて国境の警備が甘くなってからは、北方の交易はほぼ彼の独壇場になっているという。
「ティミトリの旦那、あんたを買い取りたいってあのハゲの主人に話をつけたんだけど、今まさに客がついたっていうじゃないか。で、急いで俺が交渉に行ったってわけ。感謝してくれよ」
トリスは得意げに言った。彼の認識では、ナイフで脅すどころか頭をかち割ろうとすることまで交渉の範疇らしい。
説明されても、イザベルの困惑はますます深まるばかりだった。
ディミトリは、普段はめったに人前に姿を現さないらしい。そんな男がどうして自分に目をつけたのか、いくら考えても分からなかった。
ディミトリ・デュノールの住処は、エカーヴの町よりさらに北だった。人里離れた山間、ほとんど国境に接した辺りだという。
冬の間『黒の山脈』は雪に閉ざされるため、山越えが非常に難しくなり、北方諸国との交易は基本的に休止される。ディミトリも冬眠中の熊よろしく屋敷に籠もるのだった。もちろん、アルボレダ国内の情報は配下の者たちによって逐一もたらされるのだが。
宿の外では、十名強の男たちが首領を待っていた。どいつもこいつも柄の悪い髭面で、毛皮を着込んでいることもあって、イザベルの目には獣の集団のように見えた。
彼らはみな馬を連れていて、飼葉をやり蹄鉄を整え、出発の準備をしているところだった。二台の荷馬車には木箱や樽が積載されている。
トリスに連れられて宿から出てきたイザベルを見て、
「へええ、こりゃずいぶん可愛らしいお土産だなあ。途中で食っちまっていいやつかい?」
「俺らも味見させてもらえるんだよなあ」
男どもが品のない軽口を叩いたが、ディミトリがひと睨みすると肩を竦めて黙り込んだ。
彼らは冬籠もりのための物資を運ぶ隊列だった。ひと冬分の食糧や燃料、日用品などを仕入れて北へ持ち帰る最後の便に、首領たるディミトリも同行していた。イザベルは本当に買い出しのおまけなのかもしれない。
イザベルはウールのチュニックとフード付きの分厚い外套、それに革のブーツを与えられた。温暖な地域で育った彼女には大袈裟に思える装備だったが、後日、それでも足りないと身をもって知ることになる。
「旅は長い。仲良くやろうぜ」
トリスはイザベルを荷馬車の荷台に載せた。穀類や豆の詰まった麻袋の上だ。あまり座り心地が良いとは言えない。彼自身は自分の馬に跨がって、馬車と併走する。
首領の右腕だ、などと偉そうなことを言っていたが、要するに自分の見張りを言いつけられた下っ端だ、とイザベルは看破した。
ガラガラと音を立てて馬車が動き始めると、予想どおり体中に振動が伝わった。
(絶対、逃げてやる)
イザベルは固く心に決めて、ブーツの紐を結び直した。
町を出発する時には荷馬車に乗せられていたイザベルが、最終的にディミトリの馬に同乗する羽目になったのは、三度も逃亡を図ったからだ。
一度目はエカーヴを離れてすぐのことだ。隊列が街道に出た途端に荷馬車から飛び降りたのである。
馬車が速度を増す前だったので、余裕で着地できた。蹄に蹴られないよう注意しながら騎馬の間を擦り抜けると、外套の裾を持ち上げて思い切り走った。
子供の頃から丘陵地を走り回って育ったイザベルは、足の速さには自信があった――はずなのに。
「うわっ」
凍結した路面には慣れていなかった。ほんの数メートル駆けた先で、凍った水溜まりで無様にすっ転び、半笑いの男たちに捕らえられた。
ディミトリはにこりともせず、彼女を馬車の御者台に乗せるようにと部下に命じた。
転んだ直後はさほどでもなかったのに、したたかに打ちつけた腰と尻は時間が経つごとに痛くなってくる。
「大丈夫かい? 凍った道じゃあな、重心を低くして、歩幅を狭くして歩くのがコツだよ。こう摺り足でな……」
御者の男にそう講釈されてしまう体たらくだった。名はパスカルといい、人の好さそうな初老の男だった。何とか油断させて逃げ出せないかとイザベルは考えたが、馬車が足並みを速めたので、再度挑戦する機会はなかった。
「ちゃんと見張ってろって言われただろ、まぬけ!」
「いてっ……!」
ただ、トリスが他の男に小突かれているのを見て、イザベルは少しだけ溜飲を下げた。
二度目は、最初の野営地だ。
エカーヴから北にはめぼしい宿場町はなく、野宿の旅になる。森の中を続く街道の脇には数十キロごとに開けた場所があり、旅人や隊商の宿として使われていた。
そんな場所のひとつに、日の入りの少し前に到着した。
男たちは手慣れた様子で天幕を張り、火を起こし始める。誰が指示するわけでもないのに役割分担ができており、彼らが単なる寄せ集めではなく、統制の取れた集団であることを示していた。
トリスもイザベルに付きっきりというわけにはいかなかったらしい。
「お嬢ちゃん、料理はできるかい? 芋の皮は剥ける?」
「そんなのできないわ」
家事はひととおり母から仕込まれていたが、イザベルがそう嘘を吐くと、彼は嘆息してその辺に座ってろと言った。彼が芋の入った袋を持ってくる隙に、イザベルはまたしても逃げ出したのだった。
もともと薄暗い森の中は、日が落ちるとほとんど真っ暗になる。わずかに差し込む月明かりを頼りに、イザベルはもと来た方角へ走った。今いる場所はよく分からなかったが、街道沿いに戻ればきっと何とかなると信じていた。
しかし、すぐに蹄の音が追ってきた。息が上がりかけたイザベルの前に馬で回り込んだのは、日中にトリスを叱責していた男である。
「あんまり手ぇかけさせんな、この馬鹿娘」
男は馬に乗ったままイザベルの首根っこをひっ掴み、馬上に引き上げた。彼女の抵抗などどこ吹く風だ。それほどの腕力だった。
(きっとひどい目に遭わされる)
荷物みたいに馬の背に乗せられながら、イザベルは恐ろしさに震えた。宿の主人によれば、あの熊男は自分をひと冬の玩具にするために買ったのだ。どんな折檻が待っているか想像しただけで失禁しそうだった。
「バティストさん!」
捜索を命じられていたらしいトリスが、逆方向から馬でやってきた。イザベルを見て、とりあえず安堵の表情を浮かべる。
イザベルをお縄にした男は、もともといかつい顔をさらに凶悪にして、
「トリス、おまえ、もう今夜はメシ抜きだ」
「えーそんな……食べ盛りの若者にそりゃきついっすよ」
トリスは大袈裟に泣き言を言って、それからイザベルに恨みの籠もった視線を向けた。




