救い主
部屋のドアはいつの間にか開け放たれ、そこに一人の男が立っていた。廊下の灯りを背にしているので顔はよく見えないが、物騒なものを構えているのは輪郭で分かった――短剣だ。
イザベルと客の間を切り裂いた刃物は、この男が投擲したものだろう。左手に携えた剣は奇妙に湾曲し、一見すると鉈か山刀のようだ。
「な……な……何をする!」
客の男は指先を押さえて喚いた。刃先が掠めたのか、わずかに血が滲んでいる。
軌道が少しでもずれていたら、男の指が飛ぶどころかイザベルの体まで切り裂かれていたかもしれない。その危険性に思い至って、イザベルはゾッとした。
「何だ、ちゃんと指残ってんじゃん」
声の主は無遠慮に部屋の中に入ってきた。
若い男だった。年の頃はイザベルより少し上だが、二十歳にはなっていないだろう。黒い髪と黒い目、髯はなく、人好きのする柔和な顔立ちをしていた。
彼は客とイザベルを交互に見て、
「あのさ、その子は別に買い手がついたんだ。悪いんだけど、小父さんは遠慮してもらえるかな」
などと、笑顔で図々しいことを言う。
「そっ、そんな無礼な話がまかり通るものか。主人を呼べ!」
「すぐに来るよ。それよかあんた、こんな時までそんなもんぶら下げてんの?」
若い男は客の胸元にぴたりと切っ先を突きつけた。尻餅をついたまま、客はひいと声を上げて後ずさった。大きくはだけた胸元では、幾何学模様を刻んだメダル型の首飾りが揺れている――聖職者の証だ。
笑みはそのまま、男の眼差しが冷たくなった。
「女の子を買うのも施しのひとつに勘定してくれるか、何なら神様に訊いてみるかい? すぐに会わせてやるからさ」
革のブーツを履いた足が、客の肩をぐいと踏みつけた。男に殺気はまるでなく、だからこそ薪割りでもするように相手の頭を叩き割れるのが分かった。
イザベルはあんぐりと口を開けて見守るしかなかった。
慌ただしい足音が湧いた。血相を変えた宿の主人が部屋に踏み込んで来たのだった。
「ご勘弁を! どうか! 刃傷沙汰だけは!」
主人は闖入者であるはずの男にひたすら禿げた頭を下げ、踏みつけられた客を救出した。それから改めて、先客がいるので譲ってほしいと頼み込む。
「主人まで何を言っているのだ!? 儂は高い金を払って……」
激高する客に、主人はそっと耳打ちした。
熊、とイザベルには聞こえた。
「熊の旦那がその娘をご所望なんですよ」
途端に客の顔色が変わった。
だったら仕方がないとか何とか呟いて、幾許かの詫び金を受け取り、いそいそと立ち去っていく。イザベルにも若い男にも一瞥もくれない。さっさとこの場から逃げ出したいと態度から伝わってきた。
「間に合ってよかったよ。ご主人が来るまで待ってたら、あんたあの生臭坊主にあちこち弄くられてたぜ」
男は壁から短剣を引き抜いた。幅広の刀身がくの字に湾曲した、イザベルが初めて見る刃物である。左手に握っていたもう一本と合わせて腰の後ろの鞘に収めてから、彼は上着を脱いだ。
「あ……あの……あなたは……?」
ようよう声を出せたイザベルの問いには答えず、彼は革の上着をイザベルの肩にかけた。
それで初めて、イザベルは自分がひどい格好をしていることに気づいた。もともと下着のような衣装は前の紐が解けて、胸が半ば以上露出している。
慌てて借り物の上着の前を合わせるイザベルを、男はニヤニヤして眺めた。
「さ、行こうか。あんたの本当の買い手に会わせるよ、お嬢ちゃん」
その軽やかな口ぶりは、この地獄から救出されたわけではないとイザベルに思い知らせるには十分だった。
連れて行かれたのは、おそらくこの宿でいちばん上等と思われる部屋である。
イザベルの後ろに付き添ってきた男は、彼女をぐいっと室内に押しやった。
ごてごて飾られたベッドの脇に、立派なソファがある。
そこに腰を下ろした男を見て、イザベルの口から小さな悲鳴が漏れた。
(これが……熊……?)
確かに、その男の風貌は熊を思わせた。
灰色の蓬髪も日焼けした顔も、まるで猟師か樵みたいだが、感情の読めない両眼はカタギの人間のそれではなかった。左目の下から頬にかけて刻まれた大きな刀傷が、濃い頬髭の上からでもはっきりと見て取れる。
着ているのは茶色い鞣し革の上着。腰掛けた椅子の背には毛皮の外套が引っ掛けられていて、ここよりさらに北からやって来た人間だと分かった。
体型はむしろ痩躯の部類に入るのに、なぜか大きく見える男だった。イザベルは本物の熊など見たことがなかったが、いつか本の挿絵で見たその動物と印象を重ねた。しかも、腰に剣を据えた熊だ。
「旦那、お待たせしました。この娘でしょ。まだまっさらな生娘ですよ」
主人は卑屈なくらいの猫撫で声で言って、イザベルの腕を掴んで男の前に差し出した。
凍った木肌を思わせる茶色い瞳が、じろりとイザベルを凝視する。
彼女は足が竦んだ。宿の主人やあの人攫いたちでさえ、目の前のこの男に比べればまだマシだった。彼らは自分と同じ世界の住人だった。この男は――違う。
どうぞお好きなだけお楽しみ下さいなと愛想笑いをする主人に、
「この娘、買い取らせてもらう」
と、男は告げた。
ぽんと投げられた革袋は、慌てて受けとめた主人の胸元で景気のいい音を立てる。場末の娼婦を五人は身請けできるほどの銀貨が詰め込まれていた。
「は……? は、はい、もちろんですとも! どうぞどうぞお持ち帰り下さい。こ、今夜はお泊まりで?」
「いや、一時間後に出発する。この娘に食事をさせて、まともな服を着させろ」
それだけ言い捨てて、男は外套を手に部屋を出て行く。
すれ違った時、不思議な臭いがした。深い雪に覆われた森の臭い。凍りついた大地に這う苔の臭い。そこに混じる血の臭いは、人のものか獣のものか。
「何をもたもたしてるんだ。支度をしてやるからこっちに来な!」
主人は彼女の腕を乱暴に引っ張った。それからまたあの嫌な笑みを浮かべて、
「あれは北の街道を支配する熊さ。おまえはケダモノの餌になるんだ。ここにいた方が百倍はマシだったと思い知るだろうよ――それまで命があったらな」
狡猾な主人から嘲りよりも怯えが強く伝わってきて、イザベルは震えた。
主人の禿げ頭がぺちんと鳴る。背後からあの若い男がはたいたのだ。
「ビビらせてんじゃねえよ、おっさん。この子はお頭が買ったんだから、苛めていいのはお頭だけなの。ほら早くメシ!」
はいただ今、と主人は厨房の方へすっ飛んでいった。
自分に不埒な真似を仕掛けた中年男の醜態は、イザベルにとって爽快ではあったが、あれほど高圧的だった男が平身低頭するのを見て不安になった。
(つまりはそれだけヤバイ相手だってことだ)
とても食欲は湧かないと思ったが、湯気を立てるシチューを見ると涎が垂れそうになった。
ここ数日ろくに食べていなかったイザベルは、夢中でシチューを口に運び、唇や顎が汚れるのも気にせずに平らげた。
「おーおー、見事な食いっぷり。てっきりいいとこのご令嬢だと思ってたけど、意外と逞しいねえ」
テーブルの向かいに座ったあの若い男が、半ば呆れ気味にからかった。
ナプキンなどという上品なものは与えられなかったので、イザベルは手の甲で口を拭う。そして、テーブルマナーに厳しかった母がこんな自分を見たらどう思うだろうと切なくなった。
(もう二度と、私はお母さんには会えないのかしら。帰りたい、帰りたい……)
家を思うと涙が出そうになったが、泣き顔を見せるのは悔しくて、彼女は硬いパンを無理やり口に押し込んだ。
男はクスリと笑い、テーブルに肘をついた。
「あんた、名前は?」
「……イザベル……イザベル・ド・バンドール」
「へえ、やっぱりお嬢さんだ。俺は、トリスタン」
(キザな名前。『悲しみの子』なんて本名なのかしら)
胡散臭げな表情に気づいたのか、彼は、
「トリスでいいよ。これでもお頭の右腕だ。ま、いい子にしてくれてれば手荒な真似はしないから、安心して」
と、苦笑した。




