恋歌
目の前に差し出された封書を、エンゾは強張った面持ちで眺めた。
首領の執務室にひとり呼び出され、トリスを唆そうとしたのがバレたのかと生きた心地がしなかった。おまえに頼みたいことがあると言われて、どうやら叱責や制裁ではないと分かったのはいいが――。
「これを届けてくれ。この時期、長旅が困難なのは承知しているが、おまえなら大丈夫だ」
ディミトリは固くなった若い部下の肩をぽんと叩いた。
何やら重要な使いを命じられてしまったらしい。
エンゾは雪深い山村出身で、雪道には誰よりも慣れていた。簡単、とは言わないまでも、冬の森を抜けて指示された場所まで辿り着くことは可能だろう。しかし、その届け先がどうにも奇妙だった。
冬籠もりの間も、国内に散らばった拠点とのやり取りは、当然続いている。そういった連絡文書ならば納得できるのだが、届け先として指定された場所は彼らの隠れ家ではなかった。
怪訝な表情で、だが質問しかねているエンゾを前に、ディミトリは小さな咳払いをした。
「ごく私的な信書だ。私用に使ってすまんな」
「とんでもないです! お任せ下さい!」
躊躇は一瞬で、エンゾは元気よく返事をした。
今年の冬籠もり前の旅に、自分ではなくトリスが同行したことがまだ引っかかっている。お頭に復讐しろ、などと、ほとんど腹いせのようにトリスを煽ったが、正攻法でディミトリに認められるならそれに越したことはなかった。
エンゾは封書を受け取り、ディミトリを少し心配させるほど強く握り締めた。初めて自分ひとりに任された大仕事だ。必ずやり遂げて首領の信頼を得るのだと心が弾んだ。
ディミトリの部屋を出て、彼は駆け足で階段を下った。すぐに荷造りを始めて、明朝には出立するつもりだった。
街道はすでに雪に埋まっているだろう。いくら慣れているとはいえ、目的地まで相当な時間がかかりそうだ。
二階の廊下でトリスと鉢合わせした。
洗濯物を詰め込んだ大きな籠を抱えている。汚れ物の回収など下男の仕事だろうに、このお人好しの同僚は、他の部屋の洗濯物もせっせと集めて回っているのだ。
この時間帯、洗濯部屋にはイザベルがいる。彼女に会う口実を作りたいだけだよな――エンゾは、トリスのまぬけ面を憐れみさえ込めて眺めた。
「何だよ、ニヤついて、気色の悪い」
トリスは唇を尖らせた。エンゾは、別に、と答えて首を振る。
前々から、この暢気な友人を見ているともどかしい思いがする。誰よりもディミトリに目を掛けられているくせに、あるいはディミトリに復讐する正当な理由を持っているくせに、まったくピンときていない。
その気になって上手く立ち回れば、ディミトリの懐に入って寝首を掻くことすらできるだろうに、そんな野心など欠片もないのだ。
怪訝そうなトリスの前で、エンゾは胸を反らせて腕を組んだ。
「俺、しばらくここを離れるわ。お頭の使いでな」
「お頭がおまえなんかに?」
「経験を買われたのさ。おっと、使いの内容は言えねえよ? 極秘だからな」
「何が極秘だよ。ペラペラ喋りやがって」
トリスは呆れたように眉を寄せて、それから相好を崩した。
「ま、よかったな。しっかりやれよ。多少きつい仕事でも、おまえならいけんだろ」
あっさりとした言い草だったが、皮肉でも世辞でもない心底からの激励だった。それが伝わってきたので、エンゾは毒気を抜かれた気がした。
単純なのか、無欲なのか――。
「やっすい奴……」
「何だとう!?」
「いいよもう、おまえはそのままでいろ。俺がてっぺん取ったら右腕にしてやるからよ」
うっすら馬鹿にされたことだけは分かって憤慨するトリスの肩を、エンゾはぽんぽんと叩いた。
いつになるかは分からないし、血腥く険しく、山ほど恨みを買う道になるだろう。
それでもなお、この男と一緒に北の地を牛耳るのは、そう悪い未来ではなさそうだった。
誰がおまえの下につくか、と言い返してくるトリスに後ろ姿で手を振って、エンゾは旅支度のために部屋へと急いだ。
それが、北の地で寝食を共にしたこの二人の、最後の別れとなった。
イザベルは毎晩のように故郷の夢を見ていたが、今夜の夢に出てきたのは母ひとりだった。
優しく明るく、少しだけ厳しかった母は、イザベルによく似た面持ちに笑みを浮かべている。膝に乗せているのは刺繍の布だろう。母は刺繍が得意で、珍しい花の模様を娘たちの外出着に刺してくれた。
お母さんと呼びかけたいのに、声が出てこない。
どうしても母に訊きたいことがあった。あの女が言ったこと――父亡き後、イザベルたちを追い出す口実に使われたあの酷い中傷が、果たして真実なのかどうか、確かめたかった。
でもそれを問うてしまったら、そして肯定されてしまったら、自分は二度と家族の元へは帰れない気がした。
そうだ、知るのが怖くて、自分は故郷を出たのではなかったか。
家族と離れた方がお互いのためだと思い詰めて――。
母は柔らかく微笑みながら、一針一針、刺繍を刺していく。下にある歪な綻びを美しい糸で隠すように。あの布の上に咲く見たこともない花は、イザベル自身かもしれなかった。
懐かしい母は、イザベルの方を見ようともせず、何かの歌を口ずさんでいた。
不思議な歌声で目が覚めた。
優しく甘く、少し切ない旋律を、異国の言葉がなぞってゆく。初めて耳にする歌だったが、声の主はすぐに分かった。
イザベルは布団の中で瞼を擦り、そっと視線を巡らす。鏡台の前にすらりとした後ろ姿が座っていた。長い金色の髪に櫛を通しているのはオルガである。
(きれいな髪……まるで月の光を紡いだ糸みたい)
まだ覚醒しきっていない意識で、イザベルはうっとりと眺めた。
故郷の村でいちばん髪のきれいな娘は幼馴染みのジュリーだった。長い金髪をいつも自慢していたが、オルガの髪に比べたら藁束と同じだった。
オルガがごく小さな声で歌っているのは、きっと故郷の歌なのだろう。眠りを破られたのに少しも不快ではなかった。
部屋は暗かったが、暖炉の炎でオルガの姿ははっきりと見えた。
薄い寝間着は襟ぐりが大きく開いており、うなじから背中にかけて変色した皮膚が覗いている。炎が揺らめく度、黒い影が彼女の肌を舐めるように揺蕩った。
イザベルは甘い歌声に耳を傾けながら見入っていたが、オルガさん、と呼びかけた。
オルガははっとしたように振り向く。寝間着の襟元に手を当てて、すぐに下ろした。
「ごめんなさいね、起こしちゃった?」
「素敵な歌……」
素朴な賞賛を受けて、彼女は気恥ずかしげに微笑んだ。
この館にやって来た日からずっと、イザベルはオルガの私室に居座っている。客間の鎧戸が壊れているという理由で、移動が延び延びになっているのだ。
オルガはまったく迷惑がる様子はなく、毎晩ディミトリの部屋で眠っていた。ただ、着替えや化粧をする時だけは鏡台のある自分の部屋に戻ってくる。
今も、イザベルを起こさぬよう気を遣いながら、就寝前に髪を梳っていたようだ。化粧を落としたオルガは、本来の肌の白さや顔立ちの造形美が際立つようで、なおさらに麗しかった。
(こんなにきれいで優しい人が、どうしてあんな恐ろしい熊の傍にいるんだろう)
イザベルは、何度も抱いた疑問を反芻する。
オルガは櫛を置いて、腰までかかる髪を片側で緩く束ねた。
「私の故郷に昔から伝わる歌なのよ」
「恋の歌?」
「そうね。子供の頃は意味なんて分からずに歌っていたけれど」
「ねえ、オルガさん、訊いてもいい?」
イザベルが身を起こすと、オルガは彼女に向き合って座り直した。
「この、傷のこと?」
「あの人に……やられたの?」
「どうしてそう思うの?」
問い返されて、イザベルは戸惑う。
「怖い人だから……暴力と権力を持っていて、みんなを従えているくせに、何を考えているか分からないわ。あたしには理解できない理由であなたを傷つけたとしても、不思議じゃない」
「あなたにはディミトリがそう見えているのね」
オルガは溜息とともに目を伏せた。
「無理もないわ。それは彼が悪い。なかなか本音を見せないのよ。私にさえね」
「あの人、オルガさんのことを戦利品と言ったわ。あなたを無理やり自分のものにしたの?」
オルガは間を置かずに首を振った。困ったような微笑みが、かえって強い否定を表していた。
「ディミトリは命の恩人よ。彼がいなければ私は嬲り殺されていた――アルボレダ兵に」
切ない恋歌を口ずさんでいた唇は、暗い言の葉を紡いだ。灰青色の瞳は一段色を落としたようだった。




