神様に近い場所
「あ」
彼女に気づき、トリスも同じような声を上げた。と同時に足を滑らせて大きく体勢が崩れる。
足元の雪がごっそりと落下して轟音を立てる。白い雪煙が舞い上がった。
「トリス……!」
イザベルは悲鳴に似た声を上げたが、彼は何とか屋根に身を伏せて耐えていた。もしかして今死にかけたのでは、とイザベルは青ざめた。
危ねえぞ、殺す気か、と階下から怒声が飛んで来たので、地上にも被害者はいないようだが、一歩間違えれば大惨事になっていたところだ。
「い、命綱くらいつけなさいよ」
「そんなもんつけてる腰抜け、ここにはいないよ……いてて」
トリスは篦を杖のようにして立ち上がり、悪い悪い、と下に声をかけた。それから改めて庇に腰を下ろす。結果的に仕事が早く終わったようだ。
イザベルは石の手摺りに凭れて、斜めに彼を見上げた。
左頬に青い痣ができているものの、普段どおりのトリスだ。午前中は氷の切り出し作業、午後はこうやって屋根の雪下ろし――これもまたごく日常的な労働なのだろう。体が頑強になるはずだった。
「脚、もう平気?」
トリスは逆に彼女を気遣った。すぐそこの距離だが、バルコニーに飛び降りてくる気はないようだ。
(そりゃそうよね、またあの人に叱られるかもしれないし……)
イザベルの返事が遅れたからか、トリスは切れた唇を噛み締めた。
「いや、平気なわけないよな。ごめん……ほんとに悪かった。俺が誘ったのに、危ない目に遭わせちまった」
「あなたが謝ることは何にもないわ。私が勝手に転んだの。トリスは庇ってくれたのよ。それなのに……殴るなんてひどい」
「事情はどうあれ、俺はお頭の大事なあんたに怪我をさせちまった。許してもらうためには相応の報いを受けるしかない。それがここの決まりさ」
トリスはそう言って、すぐにおどけて笑った。
「大丈夫、お頭のゲンコツなんて慣れてるよ。それにあの人が本気で怒ったら、ソッコーで指の一本や二本切り落とされてるし。軽く済んでほっとしたよ!」
「指って……」
まったく笑えない。加えて、お頭の大事な、というところにも引っかかった。そういえばバティストもイザベルを指して財産と言っていただろうか。
(やっぱりあたしはあの人の所有物扱いなんだな。お金を払って買い取ったとはいえ、そのお金をあたし自身が受け取ったわけじゃないんだから不公平な話よね)
そこまで考えて、
「……それがここの公平さなの?」
イザベルはそう尋ねた。以前にトリスが、ここの暮らしは誰にとっても公平だと言っていたことを思い出したのだ。
トリスは肯いて、庇の先で脚をぶらぶらさせた。
「上手くやれば報われるし、やらかしには必ず罰がある。凍った湖に落ちたら死ぬのと同じさ。誰でも同じ――きっとお頭自身もそうなんだと思う。この場所は公平で、神様に近いよ」
神という言葉が、肯定的な意味合いをもって彼の口から出たことに、イザベルは少々驚いた。
「トリスは神様が嫌いなのかと思ってた」
「何で? 神様は好きだよ。聖職者が嫌いなだけで」
汚点とされた出生、信仰の名の下に抑圧された暮らし、そして人身売買――以前にいた場所は、彼にとって公平とは言えなかったのだろう。見せかけの清貧やご立派な建前に見切りをつけて、暴力的でも虚飾のないこの北の地に適応したのだ。
住む世界があまりに違うとはいえ、イザベルにも理解できる心境ではあった。
雪混じりの風が強くなってきた。イザベルは両腕を摩り、ぶるっと身震いをする。外套を持って出ればよかったと反省した。
トリスも寒くなってきたのか、休憩を終えて立ち上がった。
「もう中に入んなよ。風邪引くぜ」
「うん、あの……」
イザベルは身を乗り出して、足場を確認しているトリスを見上げた。
「やっぱり謝らせて。今日は本当にごめんなさい」
「だからイザベルのせいじゃ……」
「でも楽しかったわ! もしトリスが嫌じゃなければ、また連れて行ってくれる?」
トリスは一瞬驚いた顔をして、それから声を上げて笑った。イザベルより年上のはずなのに、ずいぶん幼く見える笑顔だった。
「これからもっと氷が厚くなる。そしたら向こう岸まで滑れるようになるぜ。弁当用意して行かなきゃな」
お弁当も凍りそう、と答えようとして、その前にクシャミが出た。鼻水まで垂れてくる。
トリスは呆れたように、だが優しく、彼女を諫めた。
「部屋に戻りな、イザベル。あんたに熱でも出されたら、今度こそ俺、お頭に鼻を削がれちまう」
物騒な言葉はなまじ冗談とも思えなくて、イザベルは大人しく肯いた。
扉を閉めて屋内に戻った時、頬も指先も冷えて悴んでいたけれど、胸の奥だけは蝋燭が点ったようにかすかに温かかった。
ディミトリの様子が明らかにおかしいことに、オルガは気づいていた。表面上、気難しい北の支配者の印象は変わっていない。だが――。
当人は、床に広げた数枚の毛皮を丹念に検分している。
黒い斑の入った灰色の毛皮は、数日前に山向こうの部族が持ち込んだものだ。寒冷地に生息する北の海獣で、王都では極めて高値で取り引きされている。ディミトリは、これをさらに南方の国へ流そうと考えているらしい――もちろんアルボレダ王国の関所を通さずに、だ。
頬の傷痕が目立つ横顔は、厳しく険しく、何の揺らぎもない。しかしオルガにだけは彼の動揺が分かるのだった。
オルガは、熱いハーブ茶を机に置いた。夏に採り入れて乾燥させたものと南で買いつけてきたものを調合しており、装飾の少ない執務室に華やかな芳香が漂った。
「ディミトリ、少し休憩すれば?」
「……ああ」
生返事だ。無理に仕事に集中しているように、オルガには思えた。
あの少女を連れ帰ってきてからだ。栗色の髪と榛色の瞳の、南から来た少女。世慣れていない表情や仕草はいかにも大事に育てられた娘のもので、その素直さはオルガにとっても好もしかった。
「イザベルの傷は大したことなかったって。よかったわね」
「……ああ」
有り体に言えば、ディミトリはあの少女を気にしている。不器用ながら懸命に働く彼女を、常に視界に収めている。ひどく心配しているくせに、扱いに戸惑っている――そんな感じだ。今日だって本来ならバティストの監督責任を問うべきなのに、思わずトリス本人に手を上げてしまったのだ。
情欲めいた臭いはないので、男女間の感情ではないのだろうと思う。だから嫉妬は覚えない。覚えないが、オルガは不思議で仕方がなかった。
オルガはディミトリの傍にしゃがみ込んだ。無理やりその視界に侵入して、
「何をイラついてるの? 若い子同士が意気投合して、ちょっと羽目を外しただけじゃない。誰も何も悪いことはしていないわ」
「別に理不尽に責めたつもりはない」
「ねえ、そろそろ白状しなさいよ。あの子は誰? 何のためにここに? 愛人候補……ってわけじゃないんでしょ」
ディミトリは答えずに立ち上がった。毛皮をまとめて抱え上げ、木箱の中に片づける。そのわざとらしい無表情が憎らしく、オルガは少しだけ意地悪な気持ちになった。
「もしかして、あなたが寝室の机の抽斗にしまっている物に関係ある?」
そう、鎌を掛けた。
箱の蓋を閉める手が、一瞬止まった。振り返った顔は、子供が見たら泣き出しそうなほど凶悪だ。図星を突いた証拠だと分かって、オルガは笑いそうになった。
「中は見てないわ。夜中に抽斗を開けて溜息をついているあなたを見ただけ」
オルガも立ち上がって、恐れ気なくディミトリと向き合った。灰青の瞳は凍結した湖のような静寂を湛えて、熊と呼ばれる男を映している。
「あの子が大事なら、本当のことを教えて。何も知らされないままでは、守ってあげられないわ」
「本当のことだと……」
「ディミトリ、私はあなたのものよ。体も心も、命もね。あなたが何を考えていようと、何をしようと、私だけは見捨てない」
「おまえはおまえ自身のものだ」
ディミトリは素っ気なく言った。
それは彼の愛情と良心から出た言葉だと分かってはいた。それでも、オルガの胸を一抹の寂しさが吹き抜けた。おまえは俺の所有物だと言ってもらえたら、どんなに幸せだろうか。
気力が萎えて、それ以上の追求を諦めかけた時――。
「オルガ……助言をもらえないか」
ようよう口に出した北の国境の主人は、ひどく頼りなげな表情をしていた。
三階の屋根の雪をあらかた片づけて、トリスは額の汗を拭った。白い呼吸とともに、全身から湯気が立ち上っている。
体が火照っているのも一瞬で、すぐに冷えてしまうのは分かっていた。降り続く雪が再び屋根にのし掛かるのに、それほど時間がかからないことも。だが何度でも繰り返すしかなかった。それがここでの日常なのだから。
それがここでの公平さなのか、と彼女に問われた時、肯定するのに一瞬間が空いてしまった。
ディミトリの命令も暴力も受け入れていたのは、それがここの絶対的な規律で、荒くれ男どもに必要な秩序だからだ。公平さを保つためには、いつでも誰に対しても偏りがあってはならない。それこそ、神のように。
それが揺らいだのは、トリスの知る限り、一度きりだ。
助けてあげて、まだ子供よ――オルガの悲痛な叫びが耳に残っている。
トリスを拾った傭兵団はディミトリたちと諍いを起こし、衝突して、壊滅させられた。師匠である団長は死に、トリスもまた殺されかけたが、オルガの取り成しで助命された。まだ十五歳だった彼に、ディミトリも情けをかけたのだろう。
イザベルのことはお頭の二度目の私情だ、とトリスは思う。自分もそれで救われた以上、糾弾できる立場にはないが――もし彼が感情で動くただの男に成り下がったのなら、この場所の均衡は崩れる。
恩義で繋がれた首輪なんて、一瞬で引きちぎれるほど脆いものだ。
体温が下がってくるのを感じ、トリスは体を強張らせた。
雪は激しくなってきている。
次章へ続く




