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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第一章:昭和四十七年、水無月 - 最後の水音
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第9話 五十年後の屋敷と乾いた母親

令和四年、六月初旬。梅雨入り前の蒸し暑い夜。


田辺家の屋敷は、五十年前とほとんど変わっていなかった。黒く煤けた瓦屋根、白壁に這う蔦、そして重々しい門構え。ただ、所々に現代的な修繕の跡が見える。セキュリティカメラ、センサーライト、そして電子錠。まるで、何かを閉じ込めているような、あるいは何かを寄せ付けないような。


家全体が、常にじっとりとした湿気を帯び、壁の染みはまるで地図のように年々その範囲を広げている。それは生きた染みだった。雨の日には膨張し、晴れの日には収縮する。まるで呼吸しているかのように。


屋敷の奥、畳の匂いと線香の煙が混じり合う薄暗い一室。障子から漏れる月明かりが、座敷に座る三人の女性の輪郭を浮かび上がらせていた。


近所の酒屋の店主が、客に囁く。


「奥さん、知ってますか?田辺さんとこの娘さん、香織ちゃん。そろそろ、あの年頃らしいですよ」


「あら、まあ。また雨が続くのかしらねえ。昔もそうだったわ。あの家の娘が十八になる年は、決まって梅雨が長引くって」


「そうそう。うちのおばあちゃんが言ってたわ。『水牢の娘』って。呪いを鎮めるために、水に愛しい男を捧げるんだって。馬鹿げた話だけど、昔から町では有名な話でさ」


「可哀想にねえ。でも、それが町の平穏のためなら……仕方ないのかしらね」


田辺和子、六十八歳。かつて亮介を水に捧げた少女は、今や老婆となっていた。しかし、その美貌は異様なほど保たれている。深い皺は刻まれているものの、肌は陶器のように白く滑らかで、瞳は深い湖のように澄んでいる。長い黒髪は、一本の白髪もなく艶やかに背中まで流れていた。彼女が動くたび、微かに水の匂いがした。古い井戸の底のような、ひやりとした匂い。


和子は、静かに、しかしどこか虚ろに、古いわらべ歌を口ずさんだ。その声は、水が雫となって落ちるように、静かに、しかし淀んだ響きを持っていた。


「水よ、おいで。時計は回り。 愛しい人の、泡となる。 ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、 花嫁になる日、水底へ。 さあさあおいで、水よ、あの子を飲み込め。」


その声は、和子の声だけではなかった。何人もの女たちの声が重なり合い、空間を震わせる。


「お前たちも、もう知る時期じゃ」


和子の声は、五十年前と変わらず、水のように冷たく澄んでいた。いや、より深みを増している。まるで、深い井戸の底から響いてくるような。


その声に応じるように、襖の向こうから乾いた咳が聞こえた。


田辺美代子、四十二歳。和子の娘であり、香織と真紀の母。彼女は、この集まりには決して顔を出さない。出せないのだ。


二十四年前、儀式を完遂できなかった「失敗した巫女」。その罰として、彼女は涙を流す能力を失った。それだけではない。彼女の体からは、常に水分が奪われ続けている。


美代子の日常は、渇きとの戦いだ。朝、目覚めると喉は砂漠のように乾ききっている。皮膚は羊皮紙のように乾燥し、どんなに保湿クリームを塗ってもすぐにひび割れる。唇は切れ、声はかすれ、食事は水分の多いものしか喉を通らない。一日に何リットルの水を飲んでも、その水分はすぐに体から消え失せてしまう。まるで、体内に水分を蒸発させる機関でも埋め込まれているかのようだ。


娘たちを育てる間、彼女はずっと「乾いた母親」だった。愛情はある。抱きしめたい衝動もある。しかし、その乾いた肌で触れることを躊躇してしまう。温もりではなく、紙やすりのような感触を与えてしまうのではないかと恐れて。娘の卒業式で、結婚式で、涙を流せない母親。その苦悩は、誰にも理解されない。

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