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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第一章:昭和四十七年、水無月 - 最後の水音
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第8話 運命への序章と最後のデート

六月に入ってから、和子の体に異変が起き始めた。朝、目覚めると枕が濡れている。最初は寝汗かと思った。でも、違う。もっと透明で、もっと冷たい液体。ひやりとして、ぬめりがある。まるで、体から水が滲み出ているような。鏡を見ると、肌が透けているように見える時がある。血管が青く浮かび上がり、その中を流れるのは血ではなく水のように見える。


六月十日、土曜日。亮介との最後のデート。いや、最後にするつもりはなかった。でも、心のどこかで分かっていた。これが最後になることを。


「どこに行きたい?」


亮介が優しく聞く。


「海」


和子は即答した。なぜ海なのか、自分でも分からない。ただ、水を見たかった。大量の水を。自分を飲み込んでくれるような、大きな水を。


電車で一時間。二人は海辺の町に着いた。砂浜を裸足で歩く。波が足を濡らす。ひやりと冷たい。でも、心地いい。まるで、水が肌から体内に染み込んでくるような感覚。


「和子、楽しそうだね」

「うん」

「いつもと違う。水を得た魚みたいだ」


亮介が和子の横顔を見つめる。確かに、和子は普段見せない表情をしていた。まるで、故郷に帰ってきたような安らぎを感じていた。水が、自分を呼んでいる。おいで、おいで、と。


「亮介君」

「なに?」

「私のこと、忘れないで」

「忘れるわけないだろ。一生」

「でも、もし私がいなくなっても…思い出してくれる?」

「いなくなるって、どこに行くんだよ」


和子は答えなかった。答えられなかった。行く先は、あなたには決して言えない、冷たくて暗い水の底。あなたを道連れにしてしまう、絶望の場所。彼女は、夕陽に染まる海に視線を落とした。寄せては返す波音が、まるで運命の呼び声のように聞こえる。おいで、おいで、と。しかし、隣にいる亮介の温もりだけが、その声に抗う唯一の力だった。彼女は、泣き出しそうになるのを必死でこらえ、亮介の手を強く、強く握った。この温もりを、永遠に刻みつけるように。


「今日は、本当にありがとう」


「和子?」


「大好き」


初めて、素直に気持ちを伝えた。亮介の顔が、夕日で赤く染まる。いや、それは夕日のせいではなかった。


「俺も、大好きだ。世界で一番」


二人は、夕日が沈むまで砂浜に座っていた。手を繋いだまま。波の音が、永遠に続くBGMのように響いていた。もうすぐ、この温かい手を離し、冷たい水の中に沈めなければならないことを知りながら。


(回想、終わり)


最後の言葉と、微かな希望


ごぼ、ごぼぼ……。最後の空気が、泡となって唇から漏れ出る。亮介の体は、もう動かない。手足はだらりと垂れ下がり、ただ水の流れに身を任せている。楽しかった日々の記憶が、水中の光の粒のようにきらめいては消えていく。書道室の墨の匂い、不格好なチョコレートの甘さ、桜の花びら、そして海辺で繋いだ手の温もり。


ああ、そうか。俺は、この瞬間のために生きてきたのかもしれない。和子と出会い、愛し、そして彼女の運命の一部になるために。後悔は、ない。


水底の暗い水路が、まるで口を開けるように亮介を吸い込んでいく。体がゆっくりと引きずり込まれる。最後に見たのは、水面で揺れる和子の姿。彼女の目から、一筋の水がこぼれ落ち、亮介のいる水の中に溶けていった。それは涙ではなかったかもしれない。でも、亮介には、それが世界で最も悲しい涙に見えた。


ちりん。

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