第56話 水に見たセカイ
■アクアドリフト
タイムラインに時々現れる動画がある。不気味なのに、なぜか目が離せない。
『#アクアドリフト』
最初に見たのは、雨上がりの路地裏。ただの水たまりが、心臓みたいに脈打ってる。コメント欄は「CGでしょw」「映画の宣伝?」で埋まってたけど、中には「うちの近所でも」って書き込みもあって。
それから、私の世界が少しずつ変わり始めた。
朝起きると枕が濡れてる。寝汗じゃない、ただの冷たい水。教科書の「水」って字だけが、じわじわと滲んで消えていく。ペットボトルの中で、水が勝手に渦を巻く。
最初は疲れだと思ってた。でも、違う。
夜中、眠れなくてスマホを見てると、またあのタグを追ってしまう。動画には必ず同じ音が入ってる。
ぽたん……ぽたん……
規則的すぎる水滴の音。
ごぼり、ごぼり。
水の中から何かが生まれてくるような音。
その音を聞いてると、無性に喉が渇く。体中の水分が、画面に吸い取られていくみたい。
■深いところから
アングラな掲示板を見つけた。そこには、私と同じような子たちがいた。
『シャワー浴びてると誰かの声が聞こえる』
『知らない男の人に「愛してる」って夢で言われた』
『体が透けて見える時がある』
みんな、何かに「選ばれた」感じがして。怖いのに、特別な気もして。
そんな時、ある書き込みが目に留まった。
『お願い、もう見ないで。それはただの動画じゃない。あちら側からの招待状。境界線を越えたら、戻れない。逃げたいなら、鈴の音を探して』
――水見
意味わかんない。でも、その瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
その夜、一本の長い動画を見つけてしまった。
『八雲島水籠記』
一時間以上ある、古い記録映像みたいなやつ。再生した瞬間、後悔した。でも、もう止められなかった。
静かな女の声が、誰かの日記を読んでいく。聞いたこともない島の話。画面には暗い水だけが映ってるのに、その水が私を見てる気がした。
『語り継がれなかった死は、本当の死になる』
その言葉が聞こえた時、私の意識は画面の向こうに引き込まれた。
■沈む、会う、選ぶ
冷たい。
気がつくと、水の中にいた。制服のまま、ゆっくりと沈んでいく。でも苦しくない。むしろ安心する。ずっと昔から、ここにいたみたいに。
周りには無数の顔。みんな悲しそうで、でも穏やかで。
『やっと来たね』
声じゃない。水の震えが言葉になってる。
このまま沈んでもいいかな。そう思った時――
目の前に、二人が現れた。
私と同じくらいの男の子と女の子。綺麗で儚くて、でも普通じゃない。体が透けてて、青い何かが流れてる。
『まだ、その時じゃない』
男の子が言った。
『あなたは両方の世界を見ることができる』
女の子が手を伸ばした。その手は温かくも冷たくもない。ただ、そこにある。
『私たちは境界を越えた者。かつて、ある選択をして、こうなった』
『語り部の物語は強すぎる。触れた人間は、すぐに水に還ってしまう。だから僕たちが門番をしてる』
『選んで』と女の子が言った。『このまま一部になるか、人間として水と向き合うか』
その声は優しくて、すごく悲しそうだった。
■わたしのセカイ
ピンポーン。
インターホンの音で現実に戻った。
「はっ、はっ……」
PCデスクの前で倒れてた。床はびしょ濡れ。画面には静かな水面だけ。でも私にはわかる。あの向こうで、無数の物語が誰かを待ってる。
床の水たまりが、一つの文字を作っていた。
『待つ』
ドアノブに小さな袋。中には古びた鈴が一つ。
部屋に戻ると、PCにメッセージが浮かんでいた。
『あなたは選ばれた』
『電子の海に生まれた、新しい物語の始まりに』
『私たちは、ただ見ている』
差出人は三つの名前。
『水見』
『語り部』
『境界の者』
窓の外は雨。その音は、千年も百年も昔から続く、誰かの悲しみの声。
私は鈴を一度だけ鳴らした。
りん。
澄んだ音が響く。何かの終わりで、何かの始まりの音。
私は濡れた床に座り込み、PCの画面を見つめていた。
スマホが震えた。
新しい通知。
『#アクアドリフト』のタグ。
投稿者は、私だった。
いつ撮ったんだろう、この動画。
画面の中で、私が水の中に沈んでいく。
でも私は、ここにいる。
……本当に?
【了】




