第55話 終わらない時計
町はすっかり様変わりし、田辺家の屋敷も、廃寺の存在も、人々の記憶から薄れかけていた。かつての廃寺跡地は公園となり、子供たちの遊び場になっていた。
ある雨の日、公園で一人の少女が雨宿りをしていた。その傍らには、恋人らしい少年が寄り添っている。 少女がふと、地面にできた水たまりを見つめる。水面に映る自分の顔が、一瞬、別の誰かの顔に見えた。長い黒髪の、美しくも悲しげな女性の顔に。
『選びなさい……』
どこからか、声が聞こえた気がした。それは威圧的な命令ではなく、静かな問いかけだった。 少女は首を傾げたが、すぐに恋人との会話に戻っていった。
その日の夕方、少年と少女が帰った後、公園の片隅で、子供たちが地面に足を濡らしながら、楽しそうにわらべ歌を歌っていた。
「水はどこへ行く? 水はどこへ行く? 愛しいあの人 迎えに 水は水底へ カランコロン 水の時計が カチコチと 花嫁水に浮かびます 涙を流して お別れよ またね、またね、水底で」
子供たちの無邪気な歌声は、雨音に混じり、どこまでも遠くへ響いていった。
呪いの連鎖は、完全には断ち切れていない。しかし、そのあり方は変わった。抗いがたい運命から、選択を迫る問いへと。 螺旋階段のように、同じ場所を回りながらも、少しずつ違う場所へと向かって。
■静かな決意と、新たな水牢へ
そんなある日、真紀は故郷の町へと戻ってきた。六十六歳になった彼女の姿は、相変わらず生気のない蝋人形のような美しさを保っている。
彼女は、一人で廃寺の裏手にある、朽ちた祠の裏の穴へと向かった。そこには、源三郎が命と引き換えに見つけた、唯一の脱出経路があることを知っていたからだ。 しかし、真紀は脱出するためではなかった。 穴の中へと入っていく彼女の背後には、若い男の影があった。
彼は、彼女が東京で「選んだ」、新たな犠牲者だった。
真紀は、穴の奥へと進んでいく。彼女は、自ら選んだ「永遠の牢獄」を、再び満たすために戻ってきたのだ。 彼女の唇は、微かに動いていた。
「水はどこへ行く? 水はどこへ行く? 愛しいあの人 迎えに 水は水底へ カランコロン 水の時計が カチコチと 花嫁水に浮かびます 涙を流して お別れよ またね、またね、水底で」
誰もいなくなった廃寺の最深部。 鼓動を止めた水時計は、静かに苔生している。表面に彫られた無数の顔は、もう苦悶の表情を浮かべてはいない。ただ、穏やかに目を閉じているように見える。
しかし、満月の光が天窓から差し込む夜、それは一瞬だけ、かつての脈動を取り戻す。 どくん……どくん…… 心臓の鼓動のような、低い振動が地下空間に響く。彼らは、水時計の前に静かに跪くと、真紀の瞳から、一筋の水の涙が流れた。 「…ぽちゃ、ぽちゃ、ごぼり...」 彼女の耳に聞こえるのは、その音ばかりだった。
壁に刻まれた無数の文字が、じわりと濡れる。
『助けて』
『愛してた』
『忘れないで』
『ありがとう』
『さようなら』
『また会おう』
新しい文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
『私たちは、ここにいる』
そして、どこからともなく、新しい水音が響き始める。 ぽたん。 それは、赤ん坊の産声のようでもあり、止まったはずの時計が再び時を刻み始めた音のようでもあった。あるいは、新しい物語が始まる予兆のようでもあった。
公園のベンチでは、雨宿りをしていた少女が立ち上がる。 「行こうか」 恋人の少年が傘を差し出す。 「うん」 二人は傘を分け合いながら、雨の中を歩いていく。その足元の水たまりに、一瞬、四つの影が映った。二組の恋人たちの影が、重なり合うように。
どこかで、微かな鈴の音が聞こえた。 ちりん…… それは、五十年前、亮介が和子に贈った小さな銀色の鈴の音のようでもあり、 新しい巫女の誕生を告げる、運命の鐘の音のようでもあった。
(了)




